弘前へ流刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/01 07:03 UTC 版)
寛永17年(1640年)、頼寛が「頼兄は専横の家臣である」と幕臣・阿倍正之と渡辺図書助宗綱に相談した。阿部が大老・土井利勝に報告したところ、土井は頼兄親子を江戸に呼び寄せて幕臣から訓戒させてはどうかと頼寛に内談したが、頼寛は清兵衛一派の報復を恐れてこれを承知せず、頼兄親子の横暴を長々と書状にしたためて報告した。これを受けて江戸幕府は公儀として対応することになり、頼兄は江戸に召された。この一大事に人吉藩は改易か取り潰しかと騒ぎになり、当時73歳の頼兄は江戸に発った。箱根を越えると武器を取り上げられ、囚人同然の待遇となった。また出立は極秘であったが、国許では頼兄の養子・田代半兵衛(半兵衛の母の再嫁先が頼兄)が叛乱を起して、百数十人が死傷する騒ぎとなった。 「人吉藩#お下の乱」も参照 8月11日、藩主・頼寛は、頼兄が私曲13ヶ条の罪を犯したとしてこれを幕府に訴えた。結局、頼兄は津軽に流刑に処されたが、徳川家康にも仕えた長年の功績もあって実際的には強制隠居・蟄居であり、頼兄は米300俵30人扶持を与えられ、従者6人(7人とも)と共に弘前城の西方の高屋村に置かれたが、そこで火災が起こったために鏡ヶ池の畔に移り住んだ。なお、現在の青森県弘前市相良町は頼兄の屋敷があったことに由来している。 明暦元年(1655年)、津軽で客死。享年88。 なお、頼兄流刑の頃には嫡子・頼安は死去し、孫である頼章については、幕府の命令では召し抱えるかどうかは頼寛の心次第ということであったが、お下の乱などがあったことから、実母が島津家久の娘である縁から薩摩国島津氏預かりの身となり、子孫は島津家臣として仕えた。また『人吉市史』によれば、頼兄の流刑先に同行した従者の1人である印藤(犬童)九郎右衛門長澄が実は頼兄の子で、その孫である印藤四郎右衛門長矩が小姓として津軽藩に仕え、後に田浦の姓を与えられたとする説を記述している。
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