お下の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 01:00 UTC 版)
お下の乱 / 御下の乱(おしものらん)は、別名、相良清兵衛事件あるいは田代半兵衛の反とも呼ばれる。2代藩主頼寛は寛永17年(1640年)重臣であり次第に権力を増幅していった相良清兵衛頼兄(犬童頼兄)の専横を、幕府に対し訴え裁可を仰いだ。頼兄は江戸へ召還され小田原藩仮預かりとなった。この間に江戸屋敷より国許への使者として神瀬外記、深水惣左衛門が遣わされた。使いの内容は、頼兄の養子(義子)である田代半兵衛頼昌(犬童半兵衛とも)を引き続き藩士として取り立てる、というものであった。しかし、半兵衛は既に頼兄の処分を知っており、「お下屋敷」と呼ばれる頼兄の屋敷に呼ばれた外記と惣左衛門は半兵衛らに襲われる。惣左衛門は無事に逃げのびるも、外記は捕えられ全ての指を切られた上で殺害された。そして頼兄の一族はお下屋敷に立て籠もり、藩兵がこれを取り囲み戦闘となった。結局、頼兄の一族全員が討ち死に又は自害により121名が死亡した。これがお下の乱と呼ばれる事件である。 頼兄は幕府の裁定により遠流(津軽藩預かり)となり、弘前で明暦元年(1655年)に88歳で客死している。
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