建物・墓地など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 06:09 UTC 版)
「妙寿寺 (世田谷区)」の記事における「建物・墓地など」の解説
妙寿寺は、旧境内にあった墓地や関東大震災の被害に遭って破損した梵鐘なども併せて移された。移された墓の中には、心学者として知られる中沢道二のものがある。中沢道二は京都西陣の機織りの家の出で、後に家業を断念して石田梅岩や手島堵庵の教えを受けた。その後江戸に出て、1779年(安永8年)に日本橋塩町に心学の学舎「参前舎」を開き、ここを拠点として石門心学の普及に努めた。中沢の石門心学は庶民だけでなく、江戸幕府の老中松平定信や本多忠籌(陸奥国泉藩藩主)や戸田氏教(美濃国大垣藩藩主)などの大名などにも広がり、江戸の人足寄場における教諭方も務め、1803年(享和3年)に没した人物である。境内墓地には、中沢の他に川島正次郎(元自由民主党副総裁)や大関楯山を始めとする7人の関取の墓も存在する。 梵鐘は、7世蓮成院日悟の時代、1719年(享保4年)に鋳造されたものである。関東大震災による被害で猛火に包まれたため破損し、境内に置かれた状態となっている。作者は近江国生まれの鋳物師、太田近江大掾藤原正次という人物で、代々「六右衛門」を通称としたため「釜六」という別名でも知られる。釜六の代表作としては、両国回向院の銅造阿弥陀如来像が挙げられる。世田谷区内でも、九品仏浄真寺の茶釜、豪徳寺の梵鐘、源正寺の天水桶などがある。 妙寿寺の本堂は、移転時から使われてきた旧本堂を解体して1984年(昭和59年)に建築したものである。本堂については、1989年(平成元年)に落慶5周年法要が行われたのを始め、1994年(平成6年)、1999年(平成11年)、2003年(平成15年)、2008年(平成20年)にそれぞれ記念法要が行われた。
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