幻の桂三木助の襲名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 16:36 UTC 版)
「桂米朝 (3代目)」の記事における「幻の桂三木助の襲名」の解説
朝日放送社員の松本昇三(当時)が、香川登志緒(のちの香川登枝緒 作家)、三田純市(作家)とともに、米朝に対し、3代目の死後空き名跡となっていた「桂三木助」の襲名を提案した。米朝の芸風や風貌が2代目に似ているとされることがその理由だった。 やがて、3代目三木助の師匠であり落語芸術協会の会長であった6代目春風亭柳橋、3代目が心酔していた落語協会の8代目桂文楽、3代目の遺族、在京の各寄席の席亭、安藤鶴夫、久保田万太郎、テレビ局関係者の承諾がまとまったが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}8代目文楽から[要出典]「襲名披露は角座で行うこと」との条件が出された。当時、角座は原則として松竹芸能が芸人の配給や番組の編成を取り仕切っており、一方の米朝は千土地興行所属であった(千土地と松竹との関係から定期的に角座に出演はしていた)。当時の上方芸界の慣習上、角座で襲名披露を行うためには、松竹へ移籍することが必須条件であった。この話を聞いた米朝は「大きな名前がほしいために、今までお世話になって来た千土地さんを裏切ることは、わたしの良心が許しまへん」と、断固拒否する姿勢を示した。その後、柳橋と文楽を呼び寄せて話し合いの場が設けられるなど、米朝への説得が続けられたが、松本の朝日放送退社などで襲名計画は立ち消えとなった。米朝自身は著書で「文楽さんにも私にも知らされていなかったが(中略)襲名を条件に私をある興行会社の専属にしようという計画だった」「三木助の名前で誘い込もうというのである。それを知った途端に私の思いは冷めた」と回想している。 その後「三木助」の名跡は、3代目の実子が4代目を、3代目の孫で4代目の甥が5代目を襲名した。なお、米朝は4代目に稽古を付けていたことがある。 結局、米朝は改名・襲名を生涯行わなかった。
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