幻の梅幸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 09:22 UTC 版)
安政元年(1854年)実家を離縁された延二郎は、叔父の尽力で、師事していた六代目市川團蔵とともに江戸に下り、安政3年(1856年)、初代中村福助の門人となって中村延雀を名乗った。 その後すぐに四代目尾上菊五郎にその芸を認められる。菊五郎は延雀を可愛がり、これを養子としたばかりか、安政6年(1859年)には「菊五郎」の名跡とは不可分なはずの尾上梅幸を襲名させて、これを子がない自身の後継者に擬した。しかし「梅幸」はそもそも尾上菊五郎が代々相伝する俳名で、初代から五代目までの菊五郎は、すなわち初代から五代目の梅幸である。そこに一門の出でもない者を無理に押し込むことにとても承服できない音羽屋一門は、四代目菊五郎が死去するとすぐに三代目菊五郎の外孫をその後継に擁立する構えを見せた。一門にそっぽを向かれ、名ばかりの尾上梅幸となった延雀は、針のむしろに坐らされたような日々を送るうちに病に伏せてしまった。結局、延雀は「梅幸」を尾上家に返上し、尾上家は延雀を離縁することで決着する。このため四代目と五代目の間にもう一人いたこの梅幸は尾上梅幸代々には数えないことになっている。 またこのころの評判記に「下品」などと書かれており、上方仕込の芸風が江戸の観客の好むところに合わないことも延雀にとって致命的だった。
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