幹線の変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:11 UTC 版)
こうして東西から中山道幹線に着手した。当初から碓氷峠および木曽川・長良川・揖斐川などの大河川には難工事が予想されたことから、半田線および直江津線を資材運搬線として建設して中間区間の工事を先行する方針としていた。そこで1886年(明治19年)に南清に命じて、中間区間の測量を先行させた。その結果、この中間区間は意外な難工事であり、建設費がかさんで工期は長引き、開業後も列車の速度が遅く運転費用が増大することが判明した。そこで東海道線についても内々に調査し、東京 - 名古屋間について以下の調査結果を得た。 中山道線と東海道線の比較比較事項中山道線東海道線総建設距離(東京 - 名古屋)257.5マイル (414.4 km) 238マイル (383 km) 残り建設距離176.5マイル (284 km) 218マイル (350.8 km) 建設単価84,000円/マイル 45,000円/マイル 建設費約1500万円 約1000万円 トンネル48か所約11マイル (17.7 km) はるかに少ない 橋梁のべ4200フィート (1280.2 m) のべ21,700フィート (6614.2 m) 急勾配区間(20パーミル以上)54マイル (86.9 km) 13マイル (20.9 km) 曲線延長77マイル (123.9 km) 43マイル (69.2 km) 開通後所要時間19時間 13時間 開通後営業収入88万円 108万円 開通後営業費58万7950円 59万7876円 この結果、井上鉄道局長官は東海道線採用の結論となり、伊藤博文内閣総理大臣に意見を提出した。この変更に当たっては軍部の反対も予想されたため、井上は内務大臣兼陸軍大臣であった山縣有朋を事前に訪問して詳細な地図と見積もりを示して同意を得たという。伊藤首相も、山縣の同意を得ていることを確認してから、経路変更に賛成した。こうして1886年(明治19年)7月19日閣令第24号において幹線を中山道から東海道へ変更することを布告した。この変更がすんなりとできたのは、井上が長州閥の一員であったからであり、そうでなければ辞任に追い込まれるような事態であったとの指摘もある。
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