年代と著者についての論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 10:05 UTC 版)
「ローマ皇帝群像」の記事における「年代と著者についての論争」の解説
1889年、ドイツの歴史学者ヘルマン・デッサウは同時代人による執筆ではなく、全てが帝政ローマ末期(4世紀後半)の著作であるとした。また6人の著者についても執筆年代を偽装する為の架空の人物に過ぎず、一人の作家が全文を執筆したものだと断定した。根拠として、「セプティミウス・セウェルス伝」はアウレリウス・ウィクトルの著書を写して記述されており、また「マルクス・アウレリウス伝」はエウトロピウスの『建国以来の歴史概略』を使って書かれている可能性を例示した。ヘルマン・デッサウの記述まで同著はより古い著作で、また複数人による執筆と固く信じられていた。多くの歴史家達はデッサウの批判に猛烈な反発を示して、数十年間に亘って激しい議論が繰り広げられた。 1890年という議論の比較的早い段階でテオドール・モムゼンは帝政ローマ末期という説を肯定した。ノルマン・ベイネス、ロナルド・セイムらローマ史の大家が否定派・肯定派に分かれての議論は概ね時代が皇帝達より後の時代に執筆された事を肯定している(フリギドゥスの戦いがあった4世紀末期が通説であるが、4世紀中期成立説や5世紀以降成立説まで諸説が存在する)。また、執筆人数も単独であった可能性が高いと見られており、小ニコマコス・フラウィアヌス(フリギドゥスの戦いでエウゲニウス方について敗れた)のような特定の個人を著者と推定する説や現在では逸名となった学者や役人、教師などの著者像を想定する説も出されている。しかし、デッサウ以来の説を否定してコンスタンティヌス1世時代成立説を堅持する説や著者複数説を主張する論者もいる為、文体の考察などから未だに議論が続けられており、コンピュータ解析など最新の知見が用いられているが結論は出ていない。
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