年代と建物の役割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 14:53 UTC 版)
年輪年代学および放射性炭素年代測定による調査では、この「城砦」は770年から790年の間に造られたと考えられる。これは葛勒可汗の後を継いだ牟羽可汗の治世にあたるため、セレンガ石の碑文はポル=バジンが王宮だったと記しているが、王宮だったはずはないと発掘者たちは指摘している。しかしカラバルガスンにあったウイグルの王宮とレイアウトが似ていることから、やはり王宮だった可能性もある。この遺跡は発見物が少なく、文化層(文化的特徴を示す遺物がある堆積層)が事実上無く、(寒冷な地にもかかわらず)暖房設備が全く見当たらないことから、果たして定住した住民がいたのかという議論がある。しかし修繕・再建の跡が見られることは、人が一定期間いたことを示唆している。ポル=バジンが儀礼の場もしくは軍事拠点だったとは考えづらいが、それを確証する証拠は無い。 ポル=バジンに見られる中国の影響として、(1) 中央の建物群のレイアウトが唐風である、(2)「版築」「柱・梁構造」のように中国風の建築技法が使われている、(3) 瓦の様式など中国風の建築用材が見られる、という点が挙げられる。ポル=バジンは、軸線に沿ったレイアウトと中心に主たる建築を置く中国の「理想的都市」と、居住区の周囲を壁で取り囲んだ「理想的仏教僧院」が融合したものである。 発掘調査の結論としては、ポル=バジンは牟羽可汗が夏季に使う王宮として建造され、地震による損傷と牟羽可汗のマニ教への転向ののち、マニ教の僧院に転用されたと考えられる。牟羽可汗が死去しマニ教が廃止されると、僧院としても放棄された。そして無人となったポル=バジンは、一度もしくは複数回の地震と、それに伴う中心部の建物群もしくはどこかから出火した火災で破壊されたと考えられる。
※この「年代と建物の役割」の解説は、「ポル=バジン」の解説の一部です。
「年代と建物の役割」を含む「ポル=バジン」の記事については、「ポル=バジン」の概要を参照ください。
- 年代と建物の役割のページへのリンク