平安時代 - 中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:15 UTC 版)
平安時代の嵯峨天皇治世期に死刑が停止されたともいわれ、死刑停止時代の最高刑は流罪が主になっている。保元の乱から正中の変に至る朝廷と武士が関連する争乱では、敗れた側の天皇・上皇と一部の公家や武士が佐渡、隠岐、伊豆大島などに配流となった。中世以後の統一権力の力の弱い分権的な社会では、流罪の替わりに追放(自己の地域からの排除)が用いられた。 鎌倉時代には、検非違使に捕らえられた一般の犯罪者は、夷島(北海道)へと送る夷島流刑に処された。なお直接は送らず一度関東に引き渡され、幕府の手によって送られた。 室町時代は、権力闘争に敗れた公家や武者などが流罪を受けると、落ち武者狩りの対象となって命を落とす事が多く、流刑地まで無事に辿り着くことも容易でないために、実質的な死罪と見做される向きすらあった(『看聞日記』永享六年五月十六日条ほか)。中には、流罪を言い渡した足利将軍の手配の元、護送している人物によって殺害されてしまったケースすらあった。これらは、没落した人間は庇護する人物がいなくなったと同時に保護の対象から外れてしまい、略奪の対象となるのが当たり前、という当時の一般常識がその根柢にあると考えられている。このため、後日赦免することを前提に流罪を言い渡す場合には、事前に身の安全を確保するための特別な政治的配慮を必要としていた。
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