幕府・明治政府官僚として
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「鈴木重嶺」の記事における「幕府・明治政府官僚として」の解説
中川忠英の家臣小幡多門有則の次男として江戸駿河台に生まれ、鈴木家10代の鈴木重親(半治郎)の養子となった。天保2年(1831年)に養父が没すると家督を継ぎ、小普請入りする。天保4年(1833年)、将軍徳川家慶御台所付の広敷伊賀者となる。 天保12年(1841年)8月25日広敷取締係より、江戸城内武術見分の際に「つるぎだち鞘にをさめし世になれて みがかぬわざのはづかしきかな」の歌を詠み、鼻紙へ一首歌をしたためて、柔術の師匠の悴で剣術の師匠である窪田清音に渡す。清音がこの歌を見て松平内匠頭に出したところ、その歌を短冊にしたためて差し出すようにと命が出る。これが老中水野忠邦の目に留まり、同年10月徒目付に栄進し、市谷加賀(現在の新宿区市ヶ谷加賀町)に150坪の屋敷を拝領した。天保14年(1843年)勘定吟味役改役並に一時なるが、再び徒目付となり、再び天保15年(1844年)には勘定組頭となった。 その後、勘定吟味役を経て、元治元年(1864年)7月2日勘定奉行となるが、わずか20日余りで同23日に槍奉行となり、慶応元年(1865年)9月13日に最後の佐渡奉行となり、諸大夫に任ぜられ兵庫頭と称する。慶応4年(1868年)閏4月16日に御役御免となったのち、田安徳川家の家老となり、新政府との交渉役となった。 翌明治2年(1869年)に新政府の開拓少主典となり、明治4年(1871年)浜松県参事となり、同年12月8日に再び佐渡に渡り、相川県参事となり、明治6年(1873年)従六位に叙任された。明治8年(1875年)相川県六等判事を兼任し、同年権令に昇進し正六位に叙任された。翌年4月廃県により職を辞し、同年に息子の重明に家督を譲った。また従五位に叙任された。 その後、晩年の明治24年(1891年)2月23日に東京帝国大学旧事諮問会の要請に応じ、幕府の財政や勘定所について詳細な証言をしている。
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