幕府・細川高国政権の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:31 UTC 版)
大永6年(1526年)7月、細川高国は従弟の細川尹賢の讒言を容れ、有力被官の香西元盛を糾問して自害に至らしめた。これが堺公方を軸とした争乱の契機となる。 元盛の兄弟である波多野元清・柳本賢治は、事件の真相を知ると四国阿波の細川氏・三好氏と密かに通じ、10月に反旗を翻した。高国軍は丹波国の八上城・神尾山城に両者を包囲したが、守護代内藤国貞らが離反したため退却。三好勝長・三好政長ら四国勢の先遣軍が12月に堺に上陸して摂津国欠郡の中嶋を占領し、柳本軍も大永7年(1527年)に入って摂津の諸城を攻略した。 2月、高国軍は洛西桂川原の戦いにおいて柳本・三好連合軍に敗れ、将軍足利義晴を奉じて近江の坂本に逃れた。また奉公衆・奉行人ら幕臣も将軍の後を追い、波多野・柳本兄弟が空白地帯となった京都に進駐した。
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