島津家・津軽家との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 09:00 UTC 版)
薩摩の島津家とは鎌倉時代に主従関係を結んでいた間柄で、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代と時代が変われど付き合いは続いた。江戸時代には幕府が公家と大名の接触に目を光らせていたが、それでも近衛家と島津家の関係を阻止することはできなかった。島津家出身の娘が徳川将軍家に輿入れする際に近衛家の養女になってから輿入れしている(徳川家斉の御台所の寔子や徳川家定の御台所・敬子(天璋院))。 弘前藩主・津軽家とも主従関係を持ち、1593年(文禄2年)に津軽為信は近衛家より家紋に牡丹紋と系図を下賜されている。津軽家は近衛家と気脈を通じていたおかげで中央の政治情勢を掴んで的確な判断を下して勝ち馬に乗ることが多かった。豊臣秀吉の小田原征伐の時にはいち早く秀吉に臣従し、関ヶ原の戦いの時には近衛家と気脈を通じていたことで東軍に属し、戊辰戦争の時にも奥州20余藩が政府への反逆を開始したことを聞いた近衛忠熙が娘婿にあたる津軽藩主津軽承昭がこれに加わることを憂慮して彼に手紙を送り天下の形勢を説いて軽挙妄動がないよう説得したため津軽家は一人官軍側に立って同じく官軍の秋田藩を救い、その功績で津軽承昭は従一位勲一等に叙されている。明治11年(1878年)には近衛篤麿の弟である英麿が津軽承昭の養子に入り、大正5年(1916年)に承昭が薨去すると伯爵位を継いでいる。
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