山梨電気鉄道時代とは? わかりやすく解説

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山梨電気鉄道時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 01:21 UTC 版)

山梨交通電車線」の記事における「山梨電気鉄道時代」の解説

そこに登場したのが、地元名士である金丸宗之助が1924年設立した甲府電車軌道」である。この会社甲府市内や峡西・峡南地区大路線網を計画していたが、その計画路線一部山梨軽便鉄道路線重なっており、競合予想された。甲府電車軌道は、競合避け山梨軽便鉄道開拓していた路線手に入れるため、同社買収することとした。 1925年山梨軽便鉄道路線譲り受けた甲府電車軌道は、既存路線である馬鉄線の運営かたがた計画の具体化目指した。このうち甲府-鰍沢間は、市内だけ馬鉄線路一部使用し、そこから先は富士身延鉄道との衝突避けて遠く離すことにした。その結果、峡西地域経由する逆L字形路線計画された。 翌1926年会社甲府-鰍沢間のうち甲府-青柳間の免許を受け、用地確保乗り出した。しかし併用軌道区間では馬鉄が元々走っていた甲府駅附近柳町はともかく、相生町から先荒川橋までは道の狭さ苦しめられ専用軌道区間では用地買収釜無川架橋問題さらには資金難で、工事始まったのは3年後1929年となったこの前年に馬鉄線は工事のため休止され工事始まってすぐに社名を「山梨電気鉄道」と改称した1930年入って青柳-鰍沢間の免許取得した山梨電気鉄道は、同年5月1日貢川 - 大井間を開業したその後小刻みに上石田 - 青柳間を開業したものの併用軌道部分問題山積みで、青柳-鰍沢間は用地買収未了工事止まり、丸2年間頭と尾が欠けた状態のままであった併用軌道部分問題解決して当初柳町経由から舞鶴通り経由変更し1932年12月27日にようやく甲府駅前 - 甲斐青柳間が全通した。 しかし、山梨電気鉄道1931年創業者金丸死去してのち、会社経営一気悪化した最大債権者日本興業銀行は、債権確保すべく新社長・登小三郎を送り込んで合理化取り組ませた。だがよそ者経営者となったことに対して株主反発強かったばかりでなく、この間石和方面路線建設に関して内務省から工事状況についての報告督促され、対処困って技師病気」と答えて逃げたり、工事施工許可申請書の取り下げをしようとしたりと迷走繰り返し思うよう経営合理化は進まなかった。 しまいには1936年青柳 - 鰍沢間の特許失効し登坂社長辞任経営日本興業銀行から新たに設立され財産管理団体山梨電鉄軌道財団」に移り経営全般にわたって強制管理を受けることになった

※この「山梨電気鉄道時代」の解説は、「山梨交通電車線」の解説の一部です。
「山梨電気鉄道時代」を含む「山梨交通電車線」の記事については、「山梨交通電車線」の概要を参照ください。

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