小山田氏の家臣とは? わかりやすく解説

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小山田氏の家臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 18:53 UTC 版)

小山田氏」の記事における「小山田氏の家臣」の解説

小山田了三家伝郡内小山田家長老大長老の事」(江戸時代後期文久年間成立とされるによれば、小山田氏の家臣には三代当主・重幸の代に弾正家が別れ、さらに6代信膳の代に衛門佐家)が、11信実の代には備中守家別れたという。なお、このうち弾正家のみが確実な古記録から確認できることが指摘される。 「衛門佐家」に関しては「右衛門佐家」の誤記であると考えられており、『勝山記永正12年1515年10月17日条に、戦死した小山田大和守に続き衛門佐」(『勝山記』の別系統写本である『妙法寺記』では「右衛門助殿」)と称される人物記されており、この人物に由来する家とも考えられている。 備中守家上原氏の出自である虎満が改姓したことで成立した石田小山田氏一族として知られる小山田弾正家(境弾正家)は代々平三」の仮名、「弾正」の官途名称した一族。『甲斐国志によれば、境天神社近く屋敷構えていたという。室町時代寛正文明年間には『一蓮寺過去帳』に「壇阿弥陀仏 小山田弾正」が記載され、これが初見史料とされている。 戦国期当主には小山田弾正生年不詳 - 天文4年1535年8月22日)がいる。平三称する郡内領のうち境(都留市)・倉見山梨県南都留郡西桂町)を領した。『勝山記によれば永正5年1508年12月5日小山田弥太郎武田信虎敗れ戦死した際に伊豆伊勢宗瑞のもとへ亡命しており、この時点で「平三」を名乗っている。『勝山記によればその後帰参し「弾正」に改名し天文4年8月22日北条氏綱郡内侵攻した山中の戦いにおいて戦死している。 子息とみられる人物として小山田有誠がおり、『勝山記によれば弘治2年1556年)に吉田富士吉田市下吉田)の下吉田衆が谷村小山田信有(弥三郎)土豪小林和泉守訴えた際に、和泉守要請で「サカイノ弾正殿」が下吉田衆の谷村出府阻止乗り出している。天正2年1574年)には境村天神社棟札に「倉見・境主平朝臣有誠」が記され同一人物考えられている。「有」の一字は信有(越中守もしくは出羽守)からの偏諱であると考えられている。 『甲陽軍鑑によれば、有誠は元亀2年1571年)に駿河国深沢城静岡県御殿場市)の城番として派遣され深沢城城代である駒井昌直からの指揮受けている。 小山田信茂時代には「甲州武田法性院信玄公御代人数」『甲陽軍鑑』において、信茂の「おぼへの衆」として記載される

※この「小山田氏の家臣」の解説は、「小山田氏」の解説の一部です。
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