小山田氏の家臣
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小山田了三家伝「郡内小山田家長老大長老の事」(江戸時代後期の文久年間成立とされる)によれば、小山田氏の家臣には三代当主・重幸の代に弾正家が別れ、さらに6代信膳の代に衛門佐家)が、11代信実の代には備中守家が別れたという。なお、このうち弾正家のみが確実な古記録から確認できることが指摘される。 「衛門佐家」に関しては「右衛門佐家」の誤記であると考えられており、『勝山記』永正12年(1515年)10月17日条に、戦死した小山田大和守に続き「衛門佐」(『勝山記』の別系統の写本である『妙法寺記』では「右衛門助殿」)と称される人物が記されており、この人物に由来する家とも考えられている。 備中守家は上原氏の出自である虎満が改姓したことで成立した石田小山田氏の一族として知られる。 小山田弾正家(境弾正家)は代々「平三」の仮名、「弾正」の官途名を称した一族。『甲斐国志』によれば、境天神社の近くに屋敷を構えていたという。室町時代の寛正・文明年間には『一蓮寺過去帳』に「壇阿弥陀仏 小山田弾正」が記載され、これが初見史料とされている。 戦国期の当主には小山田弾正(生年不詳 - 天文4年(1535年)8月22日)がいる。平三を称する。郡内領のうち境(都留市)・倉見(山梨県南都留郡西桂町)を領した。『勝山記』によれば、永正5年(1508年)12月5日に小山田弥太郎が武田信虎に敗れ戦死した際に伊豆の伊勢宗瑞のもとへ亡命しており、この時点で「平三」を名乗っている。『勝山記』によればその後帰参し「弾正」に改名し、天文4年8月22日に北条氏綱が郡内へ侵攻した山中の戦いにおいて戦死している。 子息とみられる人物として小山田有誠がおり、『勝山記』によれば、弘治2年(1556年)に吉田(富士吉田市下吉田)の下吉田衆が谷村の小山田信有(弥三郎)に土豪・小林和泉守を訴えた際に、和泉守の要請で「サカイノ弾正殿」が下吉田衆の谷村出府阻止に乗り出している。天正2年(1574年)には境村天神社の棟札に「倉見・境主平朝臣有誠」が記され、同一人物と考えられている。「有」の一字は信有(越中守もしくは出羽守)からの偏諱であると考えられている。 『甲陽軍鑑』によれば、有誠は元亀2年(1571年)に駿河国深沢城(静岡県御殿場市)の城番として派遣され、深沢城の城代である駒井昌直からの指揮を受けている。 小山田信茂の時代には「甲州武田法性院信玄公御代惣人数」『甲陽軍鑑』において、信茂の「おぼへの衆」として記載される。
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