小山田氏時代の郡内地方と城館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/10 17:32 UTC 版)
「勝山城 (甲斐国都留郡)」の記事における「小山田氏時代の郡内地方と城館」の解説
戦国時代の甲斐国では守護・武田氏と有力国衆・後北条氏ら対外勢力との抗争で乱国状態となり、郡内においては小山田氏が台頭し、武田氏と抗争している。小山田氏は室町期の明応年間には活動が見られ、大永7年(1527年)には中津森館を本拠としていることが確認される。 小山田氏当主の小山田信有(越中守信有)期には武田氏に臣従し武田家臣団となり、享禄5年/天文元年(1532年)には火災による焼失を機に居館を谷村館(都留市谷村)へ移転し、新城下町を形成している(『勝山記』)。 谷村の城下町形成に伴い、勝山城は岩殿城に代わる詰城として整備されたとも考えられているが、考古・文献両面からは確認されていない。郡内地方の交通路において吉田(富士吉田市)・忍草(南都留郡忍野村)方面から大月へ向かう諸道はいずれも中津森館を経由しているため、勝山城は中津森館に代わる交通路の掌握・警護を目的として小山田氏時代に城砦が存在していたとする説もある。 天文13年(1544年)には武田氏は後北条氏と甲相同盟を結び、小山田氏は後北条氏との取次を務める。さらに武田と駿河今川氏の間でも同盟が結ばれ、後北条氏と今川氏も相互に同盟が結ばれると郡内は政治的に安定するが、信玄後期の永禄11年(1568年)から元亀3年(1572年)の間、勝頼期の天正6年(1578年)以降には甲相同盟が解消され郡内も政治的緊張状態にあったと考えられている。
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