小山田氏時代の谷村館とは? わかりやすく解説

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小山田氏時代の谷村館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/15 06:19 UTC 版)

谷村城」の記事における「小山田氏時代の谷村館」の解説

都留郡では戦国時代には有力国衆小山田氏台頭する。「向嶽寺文書によれば明応8年1499年9月には小山田信長都留郡田原郷(都留市田原)を向嶽庵(向嶽寺甲州市塩山)に還付している。小山田信有(越中守)期に小山田氏大幡川左岸中津森館(都留市金井)に居館築いている。こうした経緯から、古くから中津森本拠としていたとする説と、中津森以前田原郷を本拠としていたとする説がある。 戦国時代甲斐国では守護武田信虎と有力国人他国勢力である駿河国今川氏相模国後北条氏との抗争が行われており、都留郡では越中守信有が信虎今川氏後北条氏抗争繰り広げていた。『勝山記によれば永正15年1518年5月には武田氏小山田氏今川氏三者の間で和睦成立する越中守信有は信虎の妹を室に迎えて武田氏対す従属強め、『勝山記』に拠れば永正18年1521年2月18日武田信虎船津富士河口湖町船津)において小山田家臣小林宮内丞屋敷訪問し翌日には中津森館を訪れている。 信虎甲斐統一した永正16年1519年)に本拠甲府甲府市古府中町)に移転し新たに城下町武田城下町)を建設する信虎城下町家臣団集住させ、小山田氏越中守有夫人が甲府居住している。小山田氏同時期に谷村への本拠移転行っている。『勝山記』に拠れば享禄3年/天文元年1530年)には中津森館が焼失し武田氏支援得て谷村新たな居館築造される。なお、同年には越中守有夫人が死去して、このことも居館築造契機であるという。享禄5年(1532年)には谷村館落成し信虎をはじめ甲斐国人が参集したという。 以来谷村館越中守信有・弥三郎信有・信茂に至る小山田氏4代居館として用いられている。なお、谷村城桂川挟んで対岸位置する城山都留市川棚)には勝山城所在している。勝山城築城期・築城主は不明近世初頭浅野氏時代には築城されているが、勝山城前身谷村城詰城である城砦であったとする説がある。近世城下絵図では双方を繋ぐ二本描かれている。

※この「小山田氏時代の谷村館」の解説は、「谷村城」の解説の一部です。
「小山田氏時代の谷村館」を含む「谷村城」の記事については、「谷村城」の概要を参照ください。

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