小山田氏時代の谷村館
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都留郡では戦国時代には有力国衆・小山田氏が台頭する。「向嶽寺文書」によれば、明応8年(1499年)9月には小山田信長が都留郡田原郷(都留市田原)を向嶽庵(向嶽寺、甲州市塩山)に還付している。小山田信有(越中守)期に小山田氏は大幡川左岸の中津森館(都留市金井)に居館を築いている。こうした経緯から、古くから中津森を本拠としていたとする説と、中津森以前に田原郷を本拠としていたとする説がある。 戦国時代の甲斐国では守護・武田信虎と有力国人・他国勢力である駿河国の今川氏・相模国の後北条氏との抗争が行われており、都留郡では越中守信有が信虎や今川氏・後北条氏と抗争を繰り広げていた。『勝山記』によれば、永正15年(1518年)5月には武田氏と小山田氏・今川氏の三者の間で和睦が成立する。越中守信有は信虎の妹を室に迎えて武田氏に対する従属を強め、『勝山記』に拠れば、永正18年(1521年)2月18日に武田信虎は船津(富士河口湖町船津)において小山田家臣・小林宮内丞の屋敷を訪問し、翌日には中津森館を訪れている。 信虎は甲斐を統一した永正16年(1519年)に本拠を甲府(甲府市古府中町)に移転し、新たに城下町(武田城下町)を建設する。信虎は城下町に家臣団を集住させ、小山田氏も越中守信有夫人が甲府に居住している。小山田氏は同時期に谷村への本拠移転を行っている。『勝山記』に拠れば、享禄3年/天文元年(1530年)には中津森館が焼失し、武田氏の支援を得て谷村に新たな居館が築造される。なお、同年には越中守信有夫人が死去して、このことも居館築造の契機であるという。享禄5年(1532年)には谷村館が落成し、信虎をはじめ甲斐国人が参集したという。 以来、谷村館は越中守信有・弥三郎信有・信茂に至る小山田氏4代の居館として用いられている。なお、谷村城と桂川を挟んで対岸に位置する城山(都留市川棚)には勝山城が所在している。勝山城の築城期・築城主は不明で近世初頭の浅野氏時代には築城されているが、勝山城の前身は谷村城の詰城である城砦であったとする説がある。近世の城下絵図では双方を繋ぐ二本の橋が描かれている。
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