将来戦車
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1939年9月に戦争が勃発したことによりすべての設計案が影響を受けた。12月15日に戦車検査団はこの戦争では新型中戦車としての随伴戦車(Char d'Accompagnement)、新型の重戦車(Char de Bataille)、そして超重戦車(Char de Fortification)の3タイプを例外として既存戦車のみが生産されるべきだと決定した。これら3つのタイプを研究するために新たな戦車研究委員会が設立され1940年2月28日に最初の会合が開かれた。委員会はこの随伴戦車を47mm砲塔を装備、重戦車は少なくとも90 mm砲を車体装備とした。 よって、この2車種の中間に位置するG1は生産されないこととなった。 当然、ルノーはこの決断を覆すために最善を尽くした。1940年4月1日に小委員会はG1計画は完成が間近に迫っており今更これを中断するのは愚策であるとするルノーの主席エンジニアであるSerreを受け入れた。最初の装甲セットが1940年7月にシュナイダーによって製造されることとなっており、サスペンションとギアボックスはほぼ完成している。そして新たに350馬力のエンジンが試験されている。(ただし彼はこのエンジンが既存のルノーB1のエンジンで十分だと考えていたルイ・ルノーから抵抗されていたことには言及しなかった。) 重量は35トンから削減されおそらく32トンに抑えられるはずである。すべての理論的研究は5月に完了し、そして最初の車両が9月に完成できるようになった。この委員会はルノーによる誤魔化しが判明する以前の時のように簡単には承諾せず、たとえ試作車両でなく生産型が命令通りに完成したとしても、その先進的な技術的特徴にかかわりなく排除すると答えた。 1940年6月の停戦により開発のすべては終了した。 しかし、2008年にフランスの戦車史家の Stéphane Ferrardは他の解釈を示した。ルノー案が唯一の開発継続を認められた案であった事実は、フランスの敗北が起きなければG1Rは上記の決定にもかかわらず量産命令を受けていた可能性が高いことを示しており、おそらくARL3砲塔で400馬力エンジンという形であっただろうと主張する。 その場合はさらに40口径75mm砲搭載の三人乗り砲塔のARL42砲塔への換装が行われ、その結果として1942年には当時他国で生産されていたT-34やM4シャーマンとほぼ同等の性能を持った中戦車となっただけでなく、戦後のAMX 30を彷彿とさせる測距装置や砲安定化装置のような更に先進的な要素を持つ戦車となっていただろうと主張する。
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