富士山麓土地開発と富士山麓電気鉄道の開業
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「堀内良平」の記事における「富士山麓土地開発と富士山麓電気鉄道の開業」の解説
1922年(大正11年)10月、当時の皇太子(昭和天皇)が富士五湖へ巡幸。1924年(大正13年)には、富士北麓が名勝仮指定地に選定を受けた。 一度、世論の反対で頓挫した富士北麓の観光地開発であるが、1924年(大正13年)6月、開発に前向きな姿勢であった本間利雄が山梨県知事として着任した。本間は着任後まもなく、県庁内に「富士嶽麓開発調査委員会」を設置、「富士嶽麓開発計画書」を取りまとめた。 1926年(大正15年)、「富士山麓電気鉄道」と「富士山麓土地」が設立された。代表取締役に堀内が就任した。富士山麓電気鉄道は、大月から吉田まで敷設されていた鉄道をさらに延伸し、吉田から山中湖へ向かう線と吉田から本栖湖を経由して下部までの線を免許申請した。また、富士山麓土地は山梨県の県有林を借地した富士五湖一帯を、別荘地として開発する目的で設立された。 1927年(昭和2年)、富士山麓電気鉄道は大月と吉田の間ですでに軌道路線を持っていた「富士電気軌道」を買収。1928年(昭和3年)、吉田と鳴沢村の間に鉄道馬車を走らせ、吉田と精進湖の間にバス路線を持っていた「富士回遊軌道」を買収。同年12月、吉田で起工式が行われた。1929年(昭和4年)6月、新設の鉄道線が大月と吉田の間で開通した。また、同年8月に「山中湖ホテル」を開業。富士山麓土地は山中湖の湖畔の旭日丘に別荘地を開発し、販売を始めた。 1927年(昭和2年)、東京日日新聞と大阪毎日新聞(現毎日新聞)が共催で、「日本新八景」選定のためハガキ投票を企画した 。1976年に富士急行から刊行された『富士山麓史』によると「湖沼の部には山中湖と河口湖とそれぞれが独立した名称で名乗りをあげていた。この時、堀内良平の胸にひらめいたのが『富士五湖』の名であった。山中湖や河口湖の名では、まだ、どこの湖とも知れず、さらに投票が個々に分散して不利になる。(中略)良平は新聞社に行き『富士五湖』の新名称で投票することの了解を取るとともに、自社の株主に一株一枚の投票を呼びかけた。締め切りまでに富士五湖に寄せられた票は360万票、湖沼の部日本一となった」とある。審査の結果「富士五湖」は「日本二十五勝」に選定され、富士山麓の知名度向上に寄与した。 しかし、不景気の影響が大きく、経営状況は厳しかった。そこで山中湖付近に大学の学生寮を誘致。1935年(昭和10年)に富士ゴルフ場を開設。また1933年(昭和8年)には、1周1600メートルの「富士競馬場」を突貫工事で建設し、8月にナイター競馬を開催している。 このような増収策も経営を好転させるに至らず、「富士山麓電気鉄道」と「富士山麓土地」を合併し、山梨県の県有林を一部返還するなどの事業規模縮小を行った。
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