密貿易の発覚と処刑
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寛文7年(1667年)、長崎浜町居住の江口伊右衛門の下人で、筑後柳川領にあった正行村の平左衛門という者が、柳川藩当局に訴え出たことから、伊藤小左衛門の密貿易が発覚した。その訴えは、伊右衛門が対馬の小茂田勘左衛門と共謀して、武具を朝鮮に密売したというものであった。伊右衛門を柳川藩の長崎蔵屋敷で捕え、牢舎に入れて取調べを進めた結果、密貿易に関わる者達が判明した。 訴えをうけた藩留守居役により、柳川沖端町の喜左衛門ほか9名が3月24日、26日に捕らえられた。喜左衛門は対馬の小茂田勘左衛門らと申しあわせて船頭として朝鮮に渡り、9名の者を水主として雇ったことが判明。兄の油屋彦右衛門(新大工町家持)の名代として朝鮮に渡った築町の借家六右衛門は4月15日に捕らえられた。密貿易組織の「張本(ちょうほん)」とみなされた伊藤小左衛門は、6月25日に長崎水之浦で福岡藩士に捕らえられ、五島町へ預けられた。25日には長崎の浜町乙名浅見七左衛門が捕らえられた。主犯格の1人で油屋彦右衛門、築町の塩屋太兵衛、炉粕町の中尾弥次兵衛、そして対馬の小茂田勘左衛門、亀岡平右衛門、扇角右衛門、さらに福岡領の高木惣十郎、篠崎伝右衛門、前野孫右衛門、唐津藩の今村半左衛門、島原領日見村の加兵衛、小浜村の利兵衛、熊本藩八代の九郎左衛門、大坂の仁兵衛、長兵衛、庄左衛門のほか、宮崎や唐津、久留米などから「同類」が摘発され、94人が取り調べを受けた。 密貿易は、数年来の計画的なもので、長崎・博多・対馬から島原・熊本・唐津各領だけでなく、上方の大坂にまでおよぶ大掛かりなものだった。その中心人物が伊藤小左衛門であり、寛文2年(1662年)から、5年間で7回にわたって小茂田勘左衛門や扇角右衛門らと共謀して出資し、朝鮮に武具を密売していたのであった。 小左衛門と浅見七左衛門の2人は磔刑となり、40数人の者が斬首・獄門などの死刑、同じく40数人が在所からの追放に処され、百数十人が小呂島、姫島への流罪となった。長崎以外に居住する者はそれぞれの藩に引き渡された後に、幕府の指示どおりに処罰された。長崎関係者は、11月晦日に長崎の刑場の西坂で処刑された。小左衛門の子である2人の男児も縁座させられ、そのうち長崎にあった1人は父と同日に長崎で斬首。博多にいたもう1人は、長崎奉行から福岡藩に命じ、博多で斬首させた。博多の高木惣十郎は福岡藩当局の手で捕え、長崎に召し出して、ここで処刑。対馬の小茂田勘左衛門は、近江大津で捕えて京都の牢舎に入れ、ついで大坂に廻し、その後長崎に召し連れ、長崎奉行所で磔とする旨の判決を下した上で、対馬で刑の執行が行われた。 長崎で処刑された者の妻・子供は、斬罪にあった者以外は、町年寄・オランダ通詞・唐通事に「奴(やっこ)」として配分された。 小左衛門が実質的に密輸にかかわったのは2回だけだが、「金元」およびこの事件の「張本」と目されたのは、彼の出資によって密貿易が実現したからと考えられている。密貿易には福岡藩自身も関わっていたのではないかとも言われており、3代目藩主の黒田光之は小左衛門の命を救えなかったことを終生悔やんだ。なお、『通航一覧』では「その党人立花蔵本、同所須藤七左衛門、同休意、原左兵衛、長崎町年寄高木作右衛門、博多伊藤小左衛門、久留米之者一人、京都之者一人」とあるが、長崎奉行所の犯科帳に名前が記されているのは小左衛門だけで、町年寄の高木作右衛門は処罰されていない。
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