実業家・政治家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 12:31 UTC 版)
「猿丸吉左衛門」の記事における「実業家・政治家として」の解説
1930年代には地主経営を行うとともに、「矢満喜商事」取締役を務めた。また、芦屋駅前郵便局長、同志社理事も務めている。 1948年(昭和23年)に芦屋市長となり、1期務めた。スポーツに関心と理解の深い「スポーツマン市長」として知られ、田尾栄一が収集したスポーツ関連資料の市への寄贈を受け入れた(芦屋市立図書館の「田尾スポーツ文庫」となる)。また、兵庫県下ではいち早く市に弘報担当組織を設け、「官報式の固いものではなしに、くだけた、肩のこらぬ読み物」として1949年に広報誌『あしや』を創刊した。 芦屋国際文化住宅都市建設法(特別都市建設法のひとつ)制定を働きかけて1951年に成立を見、芦屋市の「国際文化住宅都市」指定を実現した。この政策はもともと国の「観光立国」政策に乗じ、カジノなどの遊興区画も含めた観光開発を進めようとしたもので、法案も提出直前まで「国際観光文化住宅都市建設法案」と「観光」の2文字が入っていた。芦屋市山間部の開発政策として、「第三セクター」の先駆けとも評される芦有開発株式会社の設立(芦有ドライブウェイを開業した)や奥池周辺の観光開発が挙げられ、後継市政に受け継がれたものもあるが、当時も開発に対する反対運動を招き、都市デザインの観点からも評価は分かれる。 1952年、第25回衆議院議員総選挙(兵庫県第2区)で自由党より出馬(落選)。
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