実業家転身と出産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 21:19 UTC 版)
1985年6月26日、銀座にクラブ『パレ・セゾン』をオープンする。開店費用の5千万円は銀行からの借金であったが、わずか半年で閉店する。その後は一時、会社員になって芸能界からは遠ざかり取材にも応じなくなる。その理由を「もう以前のような私ではなく、本来の私を仕事関係者も周囲の人も理解し始めているから」とロッキード事件やタレントとしての評価はもう不要との姿勢を貫くようになる。 1990年8月から西麻布のクラブを3週間ほど勤めた後、六本木のクラブ『クロコダイル・カレント』で1991年6月まで雇われママをつとめた。12月から産休を取って3月には未婚のまま42歳で男児を出産したが、私生児で認知をしておらず、父親とは妊娠が分かったと同時に別れており、その後全く接触がないという。1985年4月から榎本三恵子は創価学会員になっており、父親も学会員ではないかと噂された。 1992年9月に渋谷区代官山町にそば屋『有栖川』を開店、自らそばを打ったり茹でたりしていたが、1994年3月末に閉店した。 1994年12月1日から、自宅近くのビルで遠赤外線を使った美容サロンを始める。「薬屋の娘でしょう。遠赤外線は自然の治癒力を高めるんです。お客さんは日に6人ぐらいです」とのこと。 1998年9月の時点では美容サロンは営業しておらず、衣料品メーカーのワコールで販売員として働いており、営業で全国を回るなど多忙で「子供が小学生でPTAの副会長もやらせて頂いてます。以前のように人前に出ることはもうありません」との話であった。
※この「実業家転身と出産」の解説は、「榎本三恵子」の解説の一部です。
「実業家転身と出産」を含む「榎本三恵子」の記事については、「榎本三恵子」の概要を参照ください。
- 実業家転身と出産のページへのリンク