実業学校としての位置づけ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 12:13 UTC 版)
「徒弟学校」の記事における「実業学校としての位置づけ」の解説
1899年(明治32年)、実業学校令が制定され、それまで小学校(初等教育機関)の一種とされた徒弟学校は、実業学校(中等教育機関)のうちの工業学校の一種とされた。同年「工業学校規程」が制定され、工業学校に徒弟学校の学科(徒弟科)を付設することが可能になった。工業学校規程による工業学校に昇格する徒弟学校も多く、初期の徒弟学校の多くを占めていた「染織学校」のほとんどは工業学校に昇格した。 1904年(明治37年)3月に「徒弟学校規程」の全面的改正が行われた。徒弟学校規程改正の改革案(工業学校長会議答申)の中には、既存の徒弟学校を、近代産業に対応し中等程度の技術者の養成と徒弟教育的性格を内包した「乙種工業学校」と、貧民子弟のために義務教育の代用となり職人的・手芸的技能の教育に限定した「徒弟学校」に分けるというものもあった。しかし、技術者もしくは経営者の養成を目指す「工業学校」に対し、「徒弟学校」は「職工タルニ必要ナ教育ヲ為ス」学校としてその枠組が再確認されることとなった。 規程改正では、従来の修身に加えて「職業二直接ノ関係アル科目」と実習が必修科目となった。「職業二直接ノ関係アル科目」について、改正に向けての諮問の中には具体例を挙げたもの(板金、鋳物、鍛冶や石工などで、学問的要素の希薄な手工的技能を含むものと指摘される)もあったが、法制化では例示は行われなかった。また1904年(明治37年)には、工業学校以外の実業学校にも徒弟学校の学科(徒弟科)を付設することが可能となった。 当時発展しつつあった重工業分野の徒弟学校はわずかであり、工業学校が中堅技術者の養成機関として発展したのに対し、徒弟学校は近代的大工業の職工を養成する役割を失っていった(重工業の発展期には、学校規程に準拠しない「工業各種学校」が重化学工業に関する教育に重点を置き、また企業も付設の職工養成機関を設けるようになり、重工業発展期の技術者・基幹職工の養成に大きな役割を果たした)。 木工・金工などの部門では、多くの学校が学科内容・程度を高度化させて「工業学校」に昇格した。また徒弟学校の多くは小規模な地方公共団体が設立したものであったため、近代的工場制工業の発展の対応した実習教育の充実どころか、学校維持そのものが困難という状況も少なくなかった。府県の実業教育政策も工業学校を中心に進められたために徒弟学校への補助は薄く、廃止される学校もあった。
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