実業団選手時代
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旭化成陸上部では、1985年の別府大分毎日マラソンで初マラソン初優勝を達成。その後、再び教員採用試験に臨むも不合格となり、やむなく現役続行を決意するが、1987年に東京国際マラソン優勝、ロンドンマラソン優勝など更に活躍を続ける。しかし1987年の福岡国際マラソン(翌1988年のソウルオリンピック男子マラソン代表選考レース)では優勝した中山竹通のハイペースについてゆけず6位と完敗。1988年の東京国際マラソンで選考レースに再挑戦するも、レース前に嘔吐する体調不良も響いて9位に敗れ、ソウル五輪代表には選出されなかった。 しかし1988年10月の北京国際マラソンでは優勝したアベベ・メコネンに僅か5秒及ばなかったが、マラソン自己ベスト記録となる2時間7分40秒の世界歴代7位(当時)で準優勝を果たした。1989年には東京国際マラソン優勝、北海道マラソン優勝、1990年にもロッテルダムマラソンで優勝など好成績を残した。 1991年9月に開催された世界陸上東京大会男子マラソンは気温30度を超す高温多湿の過酷なコンディションとなり、中山竹通やメコネンら60人中24人が途中棄権する中、谷口は38km過ぎからスパートして先頭集団を抜け出し、2位のアーメド・サラに29秒差をつけ1位でゴール。日本人選手として世界陸上大会史上初の金メダルを獲得した。2019年現在、世界陸上選手権で優勝した日本人男子選手は谷口と室伏広治と鈴木雄介だけである。 1992年のバルセロナオリンピック男子マラソンでは優勝候補の1人とされていたが、20km過ぎの給水地点で後続選手に左足シューズの踵を踏まれて転倒し、さらにシューズが脱げて履き直すアクシデントに見舞われ30秒余りのタイムロスを負ったことが大きく影響し、優勝争いから脱落。しかしレース後半で順位を上げ、結果8位入賞を果たした。ゴール後のインタビューで、苦笑いを浮かべつつも「途中で、こけちゃいました」「これも運ですね。精いっぱいやりました。」とコメントした。 以降のフルマラソン出場レースでは優勝を果たせなかったものの、これまでの実績が評価されて1996年のアトランタオリンピックに五輪二大会連続出場を果たし、選手団主将も務めた。しかし同五輪の男子マラソンは日本人トップではあったが、入賞争いには絡めず19位に終わった。
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