宇文部・段部を討つ
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333年5月、慕容廆がこの世を去り、嫡男の慕容皝が後を継いだ。11月、慕容仁(慕容皝の同母弟)が慕容皝に反旗を翻して平郭で自立すると、慕容皝は遼東が慕容仁側に寝返る事を恐れ、封奕を派遣して遼東の慰撫に当たらせた。だが、かつての大司農孫機らは慕容仁に呼応して遼東城ごと反旗を翻した為、道路が封鎖されてしまった。その為、封奕は入城する事が出来ず、城を脱出してきた慕容汗(慕容皝の異母弟)と共に止む無く帰還した。 同年、司馬(参謀役)に任じられ、軍諮祭酒についても引き続き兼務した。 334年1月、封奕は慕容皝に対抗していた鮮卑族の木堤討伐の為に白狼へ出撃し、これを撃ち破って木堤の首級を挙げた。 2月、段部の段蘭(段部の大人の段遼の弟)と慕容翰(慕容皝の庶兄。段部に亡命していた)が慕容皝の領内へ侵攻し、重要都市である柳城(現在の遼寧省朝陽市凌源市)を包囲した。その為、封奕は寧遠将軍慕容汗と共に救援に赴くよう慕容皝に命じられた。出陣前、慕容皝は慕容汗へ「賊軍の士気は高く、まともに争うのは得策ではない。万全を期し、軽々しく進むことのないように。必ず兵が集まり陣が整ってから攻めるようにせよ」と誡めていたが、慕容汗は勇猛であったものの性急な人物であり、この忠告を無視して千騎余りの前鋒軍のみで突撃してしまった。封奕はこの軽率な行動を頑なに諫めるも聞き入れられず、慕容汗は牛尾谷において段蘭軍と遭遇し、大敗を喫して半数以上の兵卒が戦死してしまった。ただ、封奕が軍を率いて救援に向かい、陣形を整えて奮戦したので、慕容汗は撤退する事が出来た。これにより、大いに信頼を得たという。 335年1月、慕容皝が左右司馬の役職を新たに設置すると、封奕は右司馬に任じられた。 同年、封奕は宇文別部(宇文部の傍系)の渉夜干を強襲してこれを撃破し、多くの資産を鹵獲してから帰還した。帰還の途上、渉夜干は騎兵を率いて封奕軍を追撃し、渾水において両軍は再び交戦したが、封奕が返り討ちにした。 336年6月、段蘭が再び数万の兵を率いて柳城へ侵攻を開始し、宇文部の大人の宇文逸豆帰もまた兵を挙げて段蘭に呼応したが、慕容皝自ら柳城に入って防衛に当たると、両軍とも軍を退却させた。封奕は軽騎兵を率いて宇文逸豆帰を追撃してこれを撃破すると、宇文逸豆帰が放棄した輜重を回収し、20日余りしてから帰還した。 慕容皝は再び段部・宇文部が襲来してくるのを予期し、封奕に備えるよう命じた、封奕はこれに従って騎兵数千を率いると、馬兜山の諸道に伏兵として配置し、敵の侵攻に備えた。7月、目論み通り段遼が数千の騎兵を率いて襲来すると、封奕は伏せていた兵を繰り出して段遼軍を挟撃し、大いに撃ち破って将軍栄保を討ち取った。 9月、封奕は宇文別部へ侵攻し、大勝を収めてから軍を帰還させた。 これまでの功績により、鎮軍左長史に昇進した。
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