宇川牛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:35 UTC 版)
和牛に代表される宇川の畜産の歴史は古く、一説によれば西暦500~600年頃には始まったといわれている。「宇川牛」は日本畜産学の日本牛分類に列記され、江戸時代に宮津藩が開催した牛の市では中央上座に繋がれた。丹後半島の中郡・竹野郡・熊野郡一帯の牛はほとんどが宇川牛を基牛としたとみられ、21世紀において「京都肉」と称される和知生産の肉牛の基牛も宇川牛である。1906年(明治39年)に竹野郡畜産組合が創設された折には、宇川牛の改良増殖が第一方針とされた。 地域産業としての宇川牛の全盛期は1955年(昭和30年)頃で、畜産農家635戸で651頭を飼育した。農業の機械化や子牛価格の暴落によって、畜産農家はその後激減し、1965年(昭和40年)には268戸で287頭をするのみとなるが、1961年(昭和36年)には、碇地区で京都府内で初となる昼夜放牧が47頭で開始され、1966年(昭和41年)には肉用牛導入事業や肉用牛センターが設置されたごとにより十数頭を飼育する畜産農家も登場し、1972年(昭和48年)には17戸で40頭を飼育した。1979年(昭和54年)、京都府は総合牧場として宇川の碇地区に京都府畜産技術センターとして碇高原牧場を整備し、以後、京都府畜産研究の拠点となっている。
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