女性嫌悪との比較
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 10:52 UTC 版)
社会学者のアレン·G·ジョンソンは1997年に出版された彼の本'ジェンダー·ノット:私たちの家父長的遺産から脱皮する'(原題: The Gender Knot: Unraveling Our Patriarchal Legacy)で、男性憎悪(man-hating)に対する非難がフェミニストを引きずり出し、男性中心文化を強化するように関心を移動させる方式に活用されたと言う。 同氏の話によると、女性嫌悪と男性嫌悪を比較するのは誤ったことであり、その理由は主流文化が女性嫌悪と比較されるほどの反男性イデオロギーを提供しないからだ。 男性嫌悪に対する攻撃はフェミニズムに対する不信をあおるように作用する。その理由は"人々はしばしば「個人としての男」と、「支配的で特権的な範囲の人々としての男性」を区別できない"からだ。 2007年に出版された本'男と男らしさに関する国際百科事典'(International Encyclopedia of Men and Masculinities)でマルク·A·ウエレは、男性嫌悪を女性嫌悪と照らし合わせ、大衆文化、文学に特定の"人種化された"男性嫌悪と"男性嫌悪的衝撃"が存在する可能性を無視することはできないと記述している。 文化人類学者デヴィッド·D·D ギルモアは、ミソジニーが「ほとんど普遍的な現象」である反面、反男性的な社会制度を持つ伝統的な文化や組織的かつ一般的な反男性的な思想が浸透している例が世界的に見られないことから、男性に対する社会的な憎悪にミソジニーと相当するものはないと論じる:10-13。 ギルモアは、アンドレア・ドウォーキンのように全ての男性を同一で絶対悪であると考える急進的な派閥が中にはいることを認めつつ、一般的にミサンドリーと称されるものは個人の男性に対する憎悪ではなく、伝統的な男性の役割やマチズモに対する憎悪を指すと理論立てた。すなわち、ミソジニーが女性の信条や行動などに関わらず、女性性に対する独立した憎悪であるのに対し、一般的にミサンドリーと称されるものは社会的な関係の中における男性の行動、態度などに対する嫌悪だとする(ドウォーキンのような急進的な立場はこれには当てはまらないとしている。):10-13。
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