女子の服飾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 09:54 UTC 版)
「西欧の服飾 (17世紀)」の記事における「女子の服飾」の解説
女子の衣服の改良は、男子に十年ほど遅れて1630年代に徐々に進んでいく。まず衰退したのが大仰なスカート枠と胴体を締めつけるコルセットであったが、当時の女性達はスカート枠で大きく広がったスカートが急にしぼんでしまうことに慣れなかったためか、過渡的に浮き輪型の腰当てを当てたり最上部のスカートを腰までたくしあげるファッションが見られるようになっている。やがて、スカートのボリュームは、刺繍を施すなどした豪華なジュップ(アンダースカート)を三枚重ねにすることで保たれるようになった。その上から着るローブはボディスと引き裾の付いたオーバースカートが一体化したものだが、胸の膨らみを隠すスペインファッションの反動なのか、透けるローン布のフィシュ(スカーフ)で覆うものの乳首のすぐ上まで台形に襟ぐりを開けるようになっていく。靴も男性の履く動きやすいブーツに対応するかのように、スリップオン式(ローファーのように、足の甲を紐やボタンやバックルで固定しない足を滑り込ませるように履く靴)の「パントゥフル」というものが流行した。1650年代にはボディスの中に葦を入れて仕立てて体型を補正するコール・バレネが登場し、袖も七分丈程度に短くなって「アンガジャント」というレースを重ねたカフスで飾り、ジュップも二枚重ねが主流となった。 男子の襞襟が、いまだスペインファッションが流行していた1620年代から糊づけをやめる者が出るなど早くに廃れたのとは対照的に、女子のフレーズは1660年代まで生き延び、最末期には巨大化する風潮まで見られた。男性がふくらはぎに詰め物までして脚線美を誇っていた頃、貴婦人もいったんは下火になっていたコルセットを使って腰を細く胸をより豊かに見せようとした。1667年には従来のタイユール(仕立屋)ギルドから、クチュリエール(婦人服仕立屋)ギルドが分立し、婦人服の専門家が出現。貴婦人達は気紛れな流行の変化にますます没頭した。しかし、クチュリエールが密室で肌も露わな貴婦人に触れることが風紀を乱すという懸念から、1675年には女性によるクチュリエールのギルドが国から認可を受ける。女性の婦人服職人は、まず重く堅苦しいコルセットの軽量化を図り、貴婦人達の友人として存分に腕をふるった。
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