奥村栄実の天保改革
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寺島の配流と並行して、寺島派や上田派(後述)らの重商主義派も藩首脳部から退けられ、かわって門閥上士層の輿望を担って登場したのが、国学者としても知られる奥村栄実である。栄実は文政元年(1818年)第12代藩主前田斉広から不興を被り、月番・加判(家老に相当)を免ぜられていた。しかし斉広死後、斉泰が跡を継ぐと、学者としても名を知られた栄実は、たびたび新藩主から諮問を受け、天保7年(1836年には45歳にして再び月番・加判を命ぜられ、藩政に参画することとなる。奥村は寺島蔵人を「前門の虎」、上田作之丞を「後門の狼」と呼び、寺島派・上田派の人材をともに藩政から排除した。 翌年から奥村が主導する加賀藩の改革が行われるが、それは斉広時代の重商主義的な政策を廃止し、重農主義的かつ武士の利益を優先した反動的な側面を見せるものであった。奥村が行った高方仕法(徳政令)・株仲間の解放・農村営業の禁止・入百姓の奨励・新田開発・倹約令などは、一連の封建的反動政策ととらえられている。質に流れていた田地を持ち主に強制的に返却させるとともに、土地の売買を原則的に禁止し、百姓の土地の零細化と町人の土地集積を防いだ。さらに物価の安定をはかるため物価方を設置し、物価上昇の原因と見なした新規株立の冥加金や運上金を廃上して、株仲間を解散させるなど、商業を抑制し、農業重視の姿勢を貫いた。金沢藩下における株仲間の成立は天明5年(1785年)に藩が金沢城下町の一部商人に特権を認可したことから始まっているが、その解散命令は幕府の天保改革より4年早い。しかしその一方、藩財政の基本となる年貢米の販売のため、輸送・販売を行う大商業資本・海運業者との提携を必要とした。そのため算用場内に海運方が置かれ、藩所有の御手船を領内外の海商たちに運用させた。この政策に協力したのが、藩内随一の商人銭屋五兵衛や、三国一の豪商と呼ばれた福井藩粟崎の木谷藤右衛門・島崎徳兵衛らである。奥村政権は彼ら大商人に特権を与えることで金融を依頼し、やがて癒着するようになり、上田派から激しく批判された。 天保14年(1843年)8月に奥村栄実が死去したことにより、天保改革は終焉を迎える。かわって政権についたのが、奥村を批判し、上田作之丞を理論的支柱としていた長連弘ら黒羽織党の面々である。
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