夫・弦斎との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 00:01 UTC 版)
夫・弦斎は、もともと長兄のビリヤード仲間であった。二人は弦斎が報知新聞に『日の出島』(1896年連載開始)を連載している時期に出会い、1900年に結婚した。当時、満年齢で多嘉子は19歳、弦斎は36歳で、二人は17歳差だった。新婚旅行では箱根へ行き、多嘉子はこのとき初めて電車に乗ったという。当時、弦斎は自身が連載中の『日の出島』に幸福先生というキャラクターを登場させ、自分の妻には百種の趣味を与えたいという願望を語らせている。黒岩によれば、このキャラクターは幸福の絶頂にいる弦斎自身の分身であり、弦斎の多嘉子に対する想いを代弁させたものである。 夫婦仲はその子供から見てもうらやましいほどに良好だったとされる。娘の米子によれば、弦斎は自筆の文章の中で、多嘉子について、 我が家庭を幸福ならしむる夫人は、自ら称して我が理想に適ひたる妻なり、といふ程にして、飽くまでも日本婦人の美質を有する貴婦人。 と記している。また、弦斎は執筆・取材や療養などの都合で多嘉子と離れているときは毎日のように手紙を書いており、神奈川近代文学館にはそうした書簡が433通、はがきが53枚残されている。例えば、1909年に弦斎が静養先の湯河原から多嘉子に向けて送った手紙には、 夢に見しは両度なれども、心は殆ど毎日の様に御身の事を想い出し候。 と多嘉子への想いがしたためられている。一方、弦斎の手紙の内容から多嘉子も弦斎に宛てて頻繁に手紙を書いていたことが推測できるが、2004年時点で発見されているのは2通のみである。そのうちの1通は関東大震災の十数日後のもので、 私もおかげ様で元気に暮して居りますから御安神〔ママ〕下さいませ、人間はこんなことに出逢ふとつよくなるものと見えます。 と気丈にふるまっている。多嘉子は弦斎について、 アメリカ苦学中に見聞きしてきたりして、寛〔弦斎の本名〕は家庭生活に新しい理想をもち、〔中略〕家庭を大切にしてくれました。 と語っていた。
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