夫、広重徹との出会いと別れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/14 09:31 UTC 版)
「三木壽子」の記事における「夫、広重徹との出会いと別れ」の解説
1949年、この年の京都大学理学部に女性は壽子一人しかいなかったため、良く目立ったことで、自治会役員となる。物理学科の自治会委員には、後に夫となる広重徹がいた。 2年生の頃、民主主義科学者協会の学生部を作るから一緒にやろうと徹に誘われ、全国の国立大学の学生との連絡係を務めた。徹はなにかと理由を付けては壽子の研究室を訪れた。壽子はそれが煩わしいと思うこともあったという。 大学院1年生の時に、徹よりプロポーズされ、壽子は「一生、三木姓のまま仕事を続ける、普通の主婦みたいなことはできないけれどそれで良いか?」と念を押しての結婚だった。 結婚して関東に転居後も、徹は夜も仕事を行う人であり、壽子は朝早くから家を出て実験の日々だった。朝、夫を少しでも寝させようと、目覚まし代わりの真空管式ラジオの電源が入る「カチッ」という音がすると、音が出る前にラジオの電源を切り、夫を起こさないように、息子と静かに朝食を済ませ、そっと家を出る毎日だったという。3人で夕食を済ますと徹はすぐに仕事に掛かった。そのためほとんど会話のない毎日だった。そんな折、中学生になった息子と学校の話を楽しそうにしていると徹は「二人ともおしゃべりしていないでさっさと勉強しなさい」というような人だった。 1972年11月3日、仕事部屋にしていた亀戸(東京都江東区)で徹が吐血。夜中の3時に壽子は辻堂(神奈川県藤沢市)から自ら運転する車で駆けつけた。入院、手術の2年3ヶ月後、徹死去。 (物理学史ノート 第11号 2008年9月1日発行 物理学史通信刊行会編より)
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