大阪のちんどん通信社と『東京チンドン』とは? わかりやすく解説

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大阪のちんどん通信社と『東京チンドン』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 23:27 UTC 版)

チンドン屋」の記事における「大阪のちんどん通信社と『東京チンドン』」の解説

1989年昭和天皇崩御による自粛ムードは、ほぼ1年間チンドン屋営業不可能にさせたという。 しかし、1980年代後半から、「古くさいもの」「懐かしいもの」ではないチンドン屋へのアプローチ始まった。[要出典] 大阪では、1984年林幸治郎リーダーとして個人商店ちんどん通信社」を旗揚げ立命館大学出身であり、マスコミから「学士ちんどん屋」と取り上げられた。なお、1995年には法人化して有限会社東西屋となったが、引き続きちんどん通信社」名で活動継続している。 東京では、じゃがたらなどで活動していた篠田昌已A-musikやルナパーク・アンサンブルで活動していた大熊ワタルらが、高田宣伝社で楽士としてチンドン演奏をはじめ、記録として東京チンドンVol.1』を録音した篠田コンポステラ結成し音楽家としてチンドン奏でられる音楽取り入れ試み続けるが、1992年急逝する。大熊は、ソウル・フラワー・ユニオンソウル・フラワー・モノノケ・サミットと共に震災後神戸などでも活動し雑誌などでもチンドンに関する記事執筆している。また、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットによる、チンドン・アレンジのライヴ活動CDリリース(『アジール・チンドン』『レヴェラーズ・チンドン』『デラシネ・チンドン』)が、若年層チンドン広めることにもなった。 これら新世代活動チンドン存在若い世代伝え既存業者高齢化相まってチンドン業界若い人材が参入する流れ生まれた2001年全国チンドン屋の数は150人ほどとされる商店宣伝主要な仕事とはいえ大企業キャンペーン町おこしイベント結婚式など、賑やかな雰囲気作りのために呼ばれることも増え、特に若手とされるチンドン屋パフォーマンス営業案内含めることも多い。CD発売する取り組みなども見られる2000年に、東京高田洋介ちんどん博覧会始めた富山のチンドン・コンクールによってチンドン屋業界交流はあるが、組織化なされていないことの打開企図したもので、らによるとその趣旨若手中心となって実験的なパフォーマンス行ったり、チンドン屋存在世間アピールすることにある。年に1回ペース東京大阪福岡東京会場移し数年の間をおいて2007年にも東京開催されている。

※この「大阪のちんどん通信社と『東京チンドン』」の解説は、「チンドン屋」の解説の一部です。
「大阪のちんどん通信社と『東京チンドン』」を含む「チンドン屋」の記事については、「チンドン屋」の概要を参照ください。

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