大阪のちんどん通信社と『東京チンドン』
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「チンドン屋」の記事における「大阪のちんどん通信社と『東京チンドン』」の解説
1989年の昭和天皇崩御による自粛ムードは、ほぼ1年間チンドン屋の営業を不可能にさせたという。 しかし、1980年代後半から、「古くさいもの」「懐かしいもの」ではないチンドン屋へのアプローチが始まった。[要出典] 大阪では、1984年に林幸治郎がリーダーとして個人商店「ちんどん通信社」を旗揚げ。林は立命館大学出身であり、マスコミから「学士ちんどん屋」と取り上げられた。なお、1995年には法人化して有限会社東西屋となったが、引き続き「ちんどん通信社」名で活動を継続している。 東京では、じゃがたらなどで活動していた篠田昌已、A-musikやルナパーク・アンサンブルで活動していた大熊ワタルらが、高田宣伝社で楽士としてチンドン演奏をはじめ、記録として『東京チンドンVol.1』を録音した。篠田はコンポステラを結成し、音楽家としてチンドンで奏でられる音楽を取り入れる試みを続けるが、1992年に急逝する。大熊は、ソウル・フラワー・ユニオン(ソウル・フラワー・モノノケ・サミット)と共に震災後の神戸などでも活動し、雑誌などでもチンドンに関する記事を執筆している。また、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットによる、チンドン・アレンジのライヴ活動やCDリリース(『アジール・チンドン』『レヴェラーズ・チンドン』『デラシネ・チンドン』)が、若年層にチンドンを広めることにもなった。 これら新世代の活動はチンドンの存在を若い世代に伝え、既存業者の高齢化と相まって、チンドン業界へ若い人材が参入する流れが生まれた。2001年に全国のチンドン屋の数は150人ほどとされる。商店の宣伝が主要な仕事とはいえ、大企業のキャンペーンや町おこしのイベント、結婚式など、賑やかな雰囲気作りのために呼ばれることも増え、特に若手とされるチンドン屋はパフォーマンスを営業案内に含めることも多い。CDを発売する取り組みなども見られる。 2000年に、林と東京の高田洋介はちんどん博覧会を始めた。富山のチンドン・コンクールによってチンドン屋業界の交流はあるが、組織化がなされていないことの打開を企図したもので、林らによるとその趣旨は若手が中心となって実験的なパフォーマンスを行ったり、チンドン屋の存在を世間にアピールすることにある。年に1回のペースで東京、大阪、福岡、東京と会場を移し、数年の間をおいて2007年にも東京で開催されている。
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