大統領就任と首相指名
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「フランス第二共和政」の記事における「大統領就任と首相指名」の解説
1848年12月22日、ルイ・ナポレオンは立法議会で宣誓して新大統領に就任した。彼は「皇太子=大統領(プランス=プレジダン)」と呼ばれた。 しかし、新政権発足は孤立無援からのスタートとなった。大統領に就任して首相を指名し組閣を命じなければならなかったが、議会の調整役となり政策を実行する役目を果たせる人物に当てがなかったのである。本来、こうした役割をルイ・ナポレオンの大統領選を支えた新聞王エミール・ジラルダン(英語版)といった人物が引き受けるべきであったが、ジラルダンは急進的な改革派で議会の調整役に不適格な人物であり、大統領の手足となりうる存在ではなかった。 議会調整役としては革命前に政権を掌握していたオルレアン派が有望であったが、ルイ・ナポレオンは旧体制を支えていた派閥との妥協に消極的であった。しかし、背に腹を変えられないルイ・ナポレオンはアドルフ・ティエールに相談を持ちかけた。ティエールは政権運営の難航を予想して首相就任の任を引き受けなかったが、代打として同僚のオディオン・バローを推薦した。バローは傀儡として利用することができるが、サンシモン主義を信奉していたルイ・ナポレオンが提示する社会改革を政策として具体化させ、貧困との戦いを通じて民衆を救うという政治構想を実現できる人物ではなかった。そのため、ルイ・ナポレオンは共和派のラマルティーヌに首相を引き受けてもらおうと散歩の道すがらで接触を試み、首相就任を引き受けてほしいと申し出た。ラマルティーヌは引退を決め込んでいたためこの申し出を拒絶し、バローを推薦しながら彼が拒否したら自分が引き受けると返答した。各派が首相指名を拒否して消去法的にバローが新首相に浮上し、バローも大統領の申し出を受諾して組閣に着手することになった。 案の定、第一次オディオン・バロー内閣(英語版)は閣僚ポストをオルレアン派など王党派で固めた。したがって、ルイ・ナポレオンは『貧困の根絶(フランス語版)』(1844年)で国立の集団農場を設置して入植者を未開拓地に派遣し、農業増産によって食糧価格の騰貴に対処する政策案を提示していたのだが、そこで描いた政策の立案も遂行も思うように進められず、何もできなままに時を浪費することとなった。彼は忍耐しながらもハリエット・ハワード(英語版)や女優のラシェル・フェリックス、シャセリオーのモデルで愛人だったアリス・オジー(フランス語版)との関係を楽しみつつ、機会が訪れるのを待った。 政権発足から半年が過ぎた1849年、5月13日の総選挙(英語版)が実施される。このときの総選挙では保守派の秩序党が大勝、705議席中450議席を制して第一党に躍進した。また、ルドリュ・ロランら率いる山岳党(1849)(英語版)は180議席へと議席を増やすことに成功した。しかし、カヴェニャック率いる穏健共和派(英語版)は75議席へと転落した。山岳党が議席を伸長させたことは秩序党にとっては勝利を打ち消すほどの苦々しいものであった。
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