大東文化学院教授時代〜岩手県前沢疎開とは? わかりやすく解説

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大東文化学院教授時代〜岩手県前沢疎開

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 06:41 UTC 版)

藤塚鄰」の記事における「大東文化学院教授時代〜岩手県前沢疎開」の解説

朝鮮から帰国した鄰は昭和15年(1940)に、大東文化学院(現:大東文化大学教授就任大東文化学院は、漢学儒学重視した教育の場として、帝国議会衆議院本会議議案可決により大正12年(1923)設立され教育機関である。 鄰は、京城帝国大教授としてソウル赴任して以降没後70年経過した金正喜(キムジョンヒ1786 - 1856)が手掛けた書画関連書籍収集。「歳寒図」はその中で特に愛着深く昭和14年(1939)に自らの還暦記念して印影本を100制作して知人らに配った藤塚手塩にかけた「歳寒図」を日本に帰国する際に持ち帰ったが、それを売ってほしいと藤塚東京自宅を2カ月1日欠かさず訪ねたのが、韓国人書家の孫在馨(ソンチェヒョン1903 - 1981年)だった。藤塚は「私は朝鮮の文化財を愛するあなたの誠の心に感嘆した私たちは正喜を師として尊敬する同門だ」と在馨を認め終戦直前昭和19年(1944)、作品無償譲った。 後に「歳寒図」は韓国国宝指定された。2021年ソウル国立中央博物館が、大韓民国指定国宝指定され金正喜絵画歳寒図」(セハンド)の特別展開催藤塚日本統治下ソウル購入して東京持ち帰った同作太平洋戦争末期に、韓国人書家無償譲った逸話など知られざる日韓文化交流史に光を当てている。 無償譲渡から三か月後、鄰の東京自宅アメリカ軍空襲全焼結果的に歳寒図」は焼失免れ、鄰は岩手県前沢生家疎開し、親族知人との旧交を温めることになった疎開中に鄰は親戚縁者に、20点余り儒学信念基づいた書を残している。贈られる側の職業や志、名前にちなんだ書からは、鄰の心遣い感じられる。他にも写真書籍手紙、「歳寒図」複写本と解説直筆原稿等の資料地元残っている。 終戦直後昭和20年(1945)秋に一関第二高等学校講演行い講演内容関わる論語一説揮毫関係者贈っている。「君子敬而無失、與人恭而有禮、四海之内、皆爲兄弟也」「君子たるものが行いを慎んで落ち度がなく、他人交わって礼儀正しかったら、世の中の人は残らず兄弟となる」

※この「大東文化学院教授時代〜岩手県前沢疎開」の解説は、「藤塚鄰」の解説の一部です。
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