大宮城の戦いとは? わかりやすく解説

大宮城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 09:53 UTC 版)

大宮城 (駿河国)」の記事における「大宮城の戦い」の解説

戦国時代富士城は駿甲国境押さえの城として、重要な役割果たしていた。永禄3年1560年)の桶狭間の戦いにより今川義元敗死し、今川領国動揺する。翌永禄4年1561年)には今川氏真より富士信忠大宮城城代に任ぜられ、普請人員計らうよう指示されている。また今川氏同盟関係にあった武田氏同盟破棄し駿河侵攻開始すると、大宮城はその最前線の城となった。 やがて戦国大名としての今川氏滅亡迎えると、富士氏後北条氏庇護を受けるようになる後北条氏より城主である信忠宛の文書発給確認されるようになり、城中城外に関する具体的な指示与えられるうになる。また大宮城には城主である富士氏やその被官の他に、井出氏といった有力者も在城していた。 武田氏による大宮城への攻撃三度行われた一度目は永禄11年1568年12月二度目永禄12年1569年2月三度目同年6月25日である。一度目と二度目攻防戦では大宮城落とされず、二度目近接する甲斐国河内領主穴山信君武田方に帰属し駿河国葛山氏元連合軍撃退する事にも成功するなど、対抗勢力としての役割果たしている。 三度目での攻防戦では氏真の書状に「信玄大軍」とあるように、武田信玄率い本隊攻撃遭った6月信玄大軍率いて御殿場から駿河国入り三島韮山進んだ後に進路を西にとり大宮へと向かった大宮中道往還通過する駿府への進入口にあたる重要地であり、大宮落として進路あるいは退路確保する必要があったためである。この際の戦について北条氏照書状には「敵二千人手死人仕出候」とあり富士氏善戦したものの、信玄本隊による攻撃苦戦強いられた。また北条氏政はこの時援軍を送ることができず、富士氏三通文書送り退城勧めた。また同時に武田氏側との交渉行い穴山信君とで開城交渉進められ7月3日には開城した。 北条氏政書状には永禄12年11月27日段階武田信玄本陣富士地(大宮城にあったとあり、このとき信玄大宮城本陣構え蒲原城攻め機会伺っている。富士氏開城こそしたもの直ぐに武田氏降りずその後北条としての蒲原城戦い参戦している。その後信忠甲斐に赴き、武田氏帰属することが明確となった。 その後富士郡に対して譜代家老原昌胤市川昌房取次務めており、昌胤は大宮城周辺支配に関わっている。武田家滅亡後徳川家康駿河確保したが、天正10年1582年)に同城は焼失したという。

※この「大宮城の戦い」の解説は、「大宮城 (駿河国)」の解説の一部です。
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