夢に消え去った民族統一運動とは? わかりやすく解説

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夢に消え去った民族統一運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 18:30 UTC 版)

ハーフンガー」の記事における「夢に消え去った民族統一運動」の解説

1945年8月18日に、即ち、日本ポツダム宣言受諾発表した3日後、ハーフンガーはトゥムルバガナ、ポンサグ、ボヤンマンダフ博彦満都)のほかの内モンゴル民族独立派リーダーたちと共にソ連対日参戦内モンゴル進駐したソ連軍モンゴル人民共和国軍に呼応して王爺廟ウランホト市)で「内モンゴル人民解放宣言」を発布内モンゴル人民革命党活動公開化人民革命党モンゴル支部発足また、内モンゴル人民革命党綱領発表綱領には「マルクスレーニン主義に基づきソ連モンゴル人民共和国指導の下で、内モンゴル人民解放民主政権樹立民族平等の実現中国共産党モンゴル人民革命党及び国際共産主義政党連携内モンゴルでの社会主義共産主義実現モンゴル人民共和国との統合」などの旨が記載されていた。そして、捕虜として拘束された旧興安軍兵士たち釈放し、その戦力生かしてモンゴル自治軍を編成した。これらの一連の動きで、内モンゴル東地方の自治運動表面化された。1945年10月ハーフンガーはトゥムルバガナ、ボヤンマンダフと共に内外モンゴル統合希望10万人に及ぶ署名持ってウランバートルへ赴き、当時モンゴル人民共和国首脳ホルローギーン・チョイバルサン面会し内外モンゴル統一願望陳述した。しかし、内外モンゴル統一チョイバルサン難色示したその背景には同年2月行われたヤルタ会議で、モンゴル人民共和国現状維持することは会談内容一つとして、米、ソ、英の3ヶ国首脳の間で合意されたこと、その一方、中ソ友好条約の締結のため、また、外モンゴルの完全独立阻止するため、1945年6月から8月にかけて、当時中華民国政府宋子文外相モスクワスターリンとの会談際に、外モンゴル独立支持撤回するようとソ連政府要望したが、それを一蹴したスターリンから反って内外モンゴル統一運動持ち出され外モンゴル独立現状認めるか、それとも内外統合された「大モンゴル国」を認めるかという苦渋な対応を逼られた結果中国国民党政府独立賛否をめぐるモンゴル人民共和国国民投票結果10月20日国民投票)を承認するという条件付きで、ソ連譲歩したこと、また、ソ連としては、外モンゴル独立支持しながらも、モンゴル統合運動ソ連境内モンゴル人居住地域ブリヤート地方にも波及しかねない懸念し内外モンゴル統合好ましくなかったなどの事情があった。その様々な背景下で、「内モンゴル自治問題中国領内解決すべきだ」とチョイバルサン内外モンゴル統合を断らざるを得なかった。1946年1月5日中華民国政府外モンゴル独立正式に承認したことで、内外モンゴル事実上分断された。

※この「夢に消え去った民族統一運動」の解説は、「ハーフンガー」の解説の一部です。
「夢に消え去った民族統一運動」を含む「ハーフンガー」の記事については、「ハーフンガー」の概要を参照ください。

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