夕刊東京日日新聞
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太平洋戦争後の1948年(昭和23年)12月4日に、毎日新聞社の系列会社である東京日日新聞社による新興夕刊紙として「東京日日新聞」が“復刊”した(題字は復活したが、号数は1号から数えていた)。復刊(新創刊)の背景として、終戦直後の用紙統制が既存紙よりも新興紙に多く割り当てられる事が挙げられる。このとき勃興した新興紙として1945年12月に民報社より「民報」が創刊され、1947年8月「東京民報」に改題した後、民報社は鈴木郁三に買収され、更にその鈴木が毎日新聞社と手を組んだことで「東京民報」は1948年11月30日をもって終刊。民報社が東京日日新聞社と改称して「東京日日新聞」を新創刊した。既存紙もダミー子会社を設立して用紙を確保しようと腐心していた時期であり、毎日新聞社もまた新興紙の買収といった形で東京日日新聞を復刊(新創刊)したのであるが、翌1949年(昭和24年)11月27日に毎日新聞東京本社による夕刊紙「夕刊毎日新聞」の発行(1951年(昭和26年)10月1日毎日本紙の夕刊に切り替え)で競合したため、内容を娯楽物中心に変更。高田保の時事エッセイ「ブラリびょうたん」の企画が好評を博した。1954年(昭和29年)9月1日より朝刊紙に転換したが退勢を挽回できず、1955年(昭和30年)8月31日をもって休刊となった。 東京日日新聞社は編集局を有楽町の毎日新館に置き、印刷も毎日新聞東京本社に委託したが、既存の会社を買収した経緯から会社組織そのものは全くの別会社を装っており、資本構成に毎日新聞社の名はなかった。その後、毎日新聞社、サン写真新聞社、スポーツニッポン新聞社とともに連名でイベントを開催するようになったが、逆に印刷は東京日日新聞印刷工場を港区芝に設立して独立した。この新生東日の紙面構成は一日概ね4頁で、1面は総合面(政治経済)であり、毎日新聞夕刊に引き継がれる「近事片々」も戦前に引き付き掲載されていた。2面はスポーツと家庭面であり、毎日新聞主催の都市対抗野球や選抜高校野球、プロ野球毎日オリオンズの記事が多く掲載された。3面は社会面であり、正真正銘の「三面記事」が載った。4面は芸能面で映画演劇が主だが、放送番組を扱う場合は主としてラジオ東京(JOKR)の記事が多く載っていた。
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1948年12月4日 東京日日新聞社より夕刊紙として新創刊。 1954年9月1日 朝刊に転換
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