地名の由来と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 03:15 UTC 版)
「鷹野橋 (広島市)」の記事における「地名の由来と歴史」の解説
西堂川と鷹野橋 本来、鷹野橋は現在の鯉城通り(広島電鉄宇品線の電車通り)を流れていた藩政期以来の運河「西堂川」に架かる橋の一つであった。もともとこの近辺(大手町三~五丁目)は広島築城時には海面に没しており、藩政期の1699年(元禄12年)、埋め立てられ新開地「六丁目村」として造成されたものであるが、現在の市役所北側に所在していた藩家老上田主水家の南端からこの六丁目村に向けて架けられたものである。 橋の名はこの近辺に藩主の御鷹野(鷹狩り場)が所在していたことにちなみ、当初は土橋であった。現在、かつての橋の跡にはそれを記念するモニュメントが建立されている。その他、藩政期の1758年(宝暦8年)、城下の大火ののち「バタバタ」という妖怪がこの界隈に出没したという伝説も残され、その記念碑も建てられている。 路面電車開通と橋の消滅 1912年(大正元年)の路面電車開通にともなう市街地の再開発により西堂川は埋め立てられ、橋梁としての鷹野橋は消滅した。しかし西堂川に架かっていた3橋の位置に市電の電停が設置されることとなり、紙屋町方面から南へそれぞれの橋名にちなんで「西堂橋」「真菰橋」「鷹野橋」と命名された。 このうち西堂橋・真菰橋両電停は、その後の改称を経て「中電前」「市役所前」となっているが、鷹野橋のみは現在もその名を止めている。以上のような事情から、この電停を中心とする地区が「鷹野橋」と呼ばれるようになり、さらに近辺の商店街が「鷹野橋商店街」(現・タカノ橋商店街)と命名されるにおよび地名として定着したものと思われる。しかしこれまで「鷹野橋」が正式な町名であったことはなく、地名としてはあくまで非公式的な通称である。 鷹野橋商店街 この地区の中心となっているタカノ橋商店街は、1919年、西堂川埋立地に造成された公営(市営)市場に起源をもつ。市内数カ所に設置された公営市場の一つとして近隣からの買い物客を集めるとともに、隣接する千田町界隈に所在していた旧制高等教育機関(広島高師・広島高工・広島文理大など広島大学の前身校)の学生街としての役割も果たした。 1945年(昭和20年)8月6日の原爆被災により、爆心地から1.5km前後の位置にあった街は瞬時のうちに全壊全焼し、多くの住民が犠牲になった。しかし翌1946年には公設市場が再開され、ほぼ復興が進んだ1953年には映画館(タカノ橋東映)が誘致された。商店街の中には、記録が残っている限りで日本で初めてモーニングサービスを始めた店「ルーエぶらじる」が、2017年現在でも営業している。鷹野橋は市内では数少なくなった下町の雰囲気を残す商店街として現在も存続している。
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