地動説と日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:02 UTC 版)
慶長11年(1606年)にイエズス会の修道士、イルマン・ハビアンと林羅山が地球論争を行っている。ファビアンは地動説と地球球体説を主張し論陣を張った。この時林羅山は地動説と地球球体説を断固として受け入れず、天動説と地球方形説を主張し羅山が勝利するということになった。 徳川吉宗の時代にキリスト教以外の漢訳洋書の輸入を許可したあと、徳川家治の時代になって、通詞の本木良永が『和蘭地球図説』と『天地二球用法』の中で日本で最初にコペルニクスの地動説を紹介した。本木良永の弟子の志筑忠雄が『暦象新書』の中でケプラーの法則やニュートン力学を紹介した。画家の司馬江漢が『和蘭天説』で地動説などの西洋天文学を紹介し、『和蘭天球図』という星図を作った。旗本の片山松斎(円然)は司馬江漢から地動説のことを教えられ、『天文略名目』など地動説を紹介する書を著している。医者の麻田剛立が1763年に、世界で初めてケプラーの楕円軌道の地動説を用いての日食の日時の予測をした。幕府は西洋天文学に基づいた暦法に改暦するように高橋至時や間重富らに命じ、1797年に月や太陽の運行に楕円軌道を採用した寛政暦を完成させた。渋川景佑らが、西洋天文学の成果を取り入れて天保暦を完成させ、1844年に寛政暦から改暦され、明治時代に太陽暦が導入されるまで使われた。 仏教界では、江戸前期に游子六の『天経或問』で天動説が紹介されて須弥山宇宙観が揺らいで以来、文雄、普寂らが須弥山宇宙観擁護を行っていた。地動説紹介後、この擁護は精密さを増す形で展開されてゆき、円通は三角関数表を作成したり、数学者の梅文鼎に言及しながら、仏教的宇宙観・梵暦擁護の書『仏国暦象編』を著した。ここで西洋の暦もインド起源であることも主張した。
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