地元集中の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 00:37 UTC 版)
地元集中は、1980年代中頃以降低調になり、2000年代前半にはほぼ終息したとされている。その理由は以下のような点にある。 上に記されている、地元集中への批判が高まって来たこと。また、生徒や保護者の求めがあれば内申書を開示させられる可能性があることから、地元集中の進路指導が難しくなってきたこと。 教育制度の変化地元集中運動がとくに激しかった地域の一つとされる松原市では、地元公立高校の一つである松原高校が1996年に普通科から総合学科へと転換された。大阪府の公立高校の総合学科は学区制の対象外で、入試も普通科よりも前の日程で行うことや、自由な校風が評価されたため、同高校には広範囲から受験生が応募するようになり、かえって偏差値が上昇するなどした結果、地元の生徒が排除されるなど、地元集中が実現できない状況となった。また、もうひとつの地元公立高校である大塚高校も1992年の体育科併設により普通科の定員が削減された。これらの結果、松原市内の市立中学校から地元公立高校への進学の枠が減少することとなった(生野高校が松原市の地元公立高校扱いではない理由は、上記の#地元集中における地元高校の選定を参照)。 少子化に伴う高校の統廃合同じく地元集中運動が激しかった高槻市や門真市、守口市、枚方市で、2000年代前半以降、少子化に伴う府立高校の統廃合が行われたため、地元集中運動を行おうにもその受け皿となる地元公立高校が減少し、運動推進を困難にした。 もっとも、現在でも地元集中の理念を持ち続ける一部教職員が、ホームルームや個人面談などで、生徒や保護者に地元高校の進学を薦めることもあるとされる。ただしその場合でも、以前のような強要的な性格は薄らいでいるとされる。 2011年大阪の進学指導特色校10校に文理学科が設置された影響で、定員割れの可能性が高い底辺校の生徒確保の為に現在でもこの行為が行われているとされる。
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