国際的緊張と裁判所の消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 00:17 UTC 版)
「常設国際司法裁判所」の記事における「国際的緊張と裁判所の消滅」の解説
1933年、裁判所の業務は再び増加し、通算で20番目の判例(「東部グリーンランド事件(英語版)」)を下した。しかしこの時期になると国際的緊張は次第に増していき、1935年には日本とドイツが国際連盟から正式に脱退することとなった。両国は国際連盟規約とは別に裁判所の管轄を受け入れる旨の議定書(裁判所規程第36条に基づく)を批准していたため、これらの脱退が裁判所に直接的な悪影響を及ぼすことはなかったが、それでも諸国は裁判所に事件の審理を付託することをためらうようになった。ドイツが裁判所に係属中の2つの事件取り下げたことは象徴的な事例である。裁判所の元判事でハーバード大学元教授のマンレー・オットマー・ハドソン(英語版)が言うには、裁判所の開設から13年目となる1934年は「その数字にまつわる習慣にならうかのように」、諸国は日に日に増す国際的な緊張に関心を持つようになり裁判所に持ち込まれる事件は少なくなっていった。その後1937年にはモナコによる裁判所議定書の受諾というニュースがあったものの、1935年から1939年にかけて、裁判所の業務が少ない期間が続いた。1940年にはこうした国際情勢のため、裁判所の業務は1月19日と26日に下された命令だけであった。ドイツが裁判所のあったオランダを占領すると、裁判所は裁判所としての業務を行うことができなくなった。しばらくは裁判所各職員は外交特権を享受することができたが、外交特権が許容されなくなると知ると、在オランダ外国大使館員がオランダを脱出した後、7月16日に裁判長以下各職員もオランダからスイスに移動した。 1941年から1944年にかけて、裁判所は開廷することができなくなった。裁判所の制度はそのままの形で残されたが、後に解体されることになる。1943年、「常設国際司法裁判所問題」を話し合うためのパネルが設置され、同年3月20日から1944年1月10日まで会合が行われた。パネルでは、裁判所の名前・機能は残されるべきとされたが、現状の裁判所を維持するよりも新しい裁判所を将来設置すべきと結論された。1944年8月21日から10月7日にかけて行われたダンバートン・オークス会議において、常設国際司法裁判所の立場を継承する国際連合の司法機関としての国際法廷が新たに創設されることとなった。こうした会議の結果、1945年10月に常設国際司法裁判所の判事はすべて公式に退職することとなり、1946年4月19日、連盟解散決議に従い国際連盟が解散したことに伴い裁判所は消滅し、国際司法裁判所(ICJ)に継承されることとなった。
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