国防義勇部隊への統合
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1907年に、陸軍大臣のリチャード・ハルダン(en:Richard Haldane, 1st Viscount Haldane)の主導により、義勇軍とヨーマンリー、民兵を常備軍の予備兵力として統合する再編計画「1907年国防予備軍法(Territorial and Reserve Forces Act 1907)」が制定された。これは第二次ボーア戦争でまたも発生した常備軍の兵力不足の経験から、より機能的かつ大規模な予備兵力の必要が認識され立案されたものである。第二次ボーア戦争では、前述の義勇軍のほか、ヨーマンリーの人員を基幹に海外派遣部隊としたインペリアル・ヨーマンリーなども出動し、すでに1901年にはヨーマンリー全てをインペリアル・ヨーマンリーへと種別変更する措置もとられていたが、なお不十分と考えられたのであった。 この計画に基づき、1908年4月1日に国防義勇部隊(テリトリアル部隊、Territorial Force、TF)が創設され、従来の義勇軍・ヨーマンリー・民兵が統合された。創設時の編制は、歩兵師団14個とヨーマンリー騎兵旅団14個であった。所属する歩兵大隊207個は常備軍の連隊の管理下に置かれ、例えばロイヤル・スコット連隊の第4大隊から第10大隊は国防義勇部隊の系列である。国防義勇部隊の任務は、第一義的には戦時における本土防衛と定められ、原則として海外への派遣は行わないものとされた。他方で、志願があれば部隊や個人での海外任務も可能であった。1910年の時点では海外派遣志願者は1割以下にとどまった。 1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると海外派遣の必要が増し、これに応じて同月中に70個以上の大隊がフランス派遣を志願した。また、海外派遣用の第2線大隊が従来の大隊ごとに増設され、例えば既存のイースト・サリー連隊第5大隊は第1/5大隊に改名し、増設大隊は第2/5大隊というように命名された。師団も同様に増設され、例えばウェセックス師団は第2線大隊から構成される第2ウェセックス師団を新編しており、後に第45師団と改名させている。これらの新設師団は当初はエジプトやインドなど植民地の警備に送られたが、消耗した常備軍部隊と交代して1915年以降には西部戦線の前線へと展開した。第1線大隊が海外派遣された後には、第2線大隊を自由に運用できるように、さらに後詰の第3線大隊が増設された例も多く、終戦時には全部で692個の歩兵大隊を有するに至った。第3線大隊のほとんどなど本国に残った部隊は、新兵の訓練と本土の警備を行っている。 もっとも、国防義勇部隊の遠征能力には疑問が抱かれ、陸軍大臣ホレイショ・キッチナーは新たな志願兵部隊であるキッチナー陸軍を創設している。国防義勇部隊の消耗が進むと、キッチナー陸軍からの補充や新規徴集が増加したため、国防義勇部隊の独自性は薄れていった。
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