国内難民 - ニャマタ (ジタガタ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/23 03:56 UTC 版)
「スコラスティック・ムカソンガ」の記事における「国内難民 - ニャマタ (ジタガタ)」の解説
ムカソンガの一家は、現在のルワンダの首都キガリから南に約40キロのところにあるニャマタ(英語版)に追放された(ルワンダ虐殺の当時ツチ族の避難所であったニャマタ教会は、現在ニャマタ虐殺記念館となっており、墓地には45,308人の犠牲者が眠る)。一家は1960年にニャマタのジタガタという村に定住した。大型の草食動物が群れをなして棲む熱帯草原地帯で、乾燥して暑く、雨もほとんど降らないため井戸が涸れることもしばしばで、ツェツェバエが生息し、アフリカ睡眠病が蔓延していた。 ムカソンガの父コスマ(Cosmas または Cosma)は第一次大戦中に生まれ、1920年代にキリスト教が普及して学校が建てられるようになると、当時植民地当局との交渉に使われていたスワヒリ語を学び、当局で会計補佐を務めていたが職を追われた。母ステファニア(Stefania)は牧畜を営んでいたが、移住後は裏庭で薬草などを栽培していた。 「ムカソンガ」という名前には2つの意味がある。一つはルワンダ語の「またか」という意味であり、これは父コスマが、すでに娘2人、息子2人が生まれた後に再び娘が生まれたときに叫んだ言葉であった。当時、娘の誕生はあまり喜ばれず、理想の子どもの構成は「息子5人、娘2人」であったからである。もう一つは、ルワンダ語で「…の女」を表わす「ムカ」と「頂点」を表わす「ソンガ」の組み合わせであり、「頂点を極めた女」の意味である。これは、生き延びて家族の記憶を継承して欲しいという父の願いを表わすものであった。ムカソンガの後にさらに娘が2人生まれたため、彼女は「3番目の息子」として育てられた。ニャマタに定住したのは彼女がまだ4歳のときであったが、父の仕事を手伝い、母と一緒に畑仕事をし、薪拾いをした。母の畑の一画を自分の土地として与えられ、収穫した作物を売り歩いたりもした。 一家は日々フツ族からの迫害と暴力に晒されていた。母は攻撃に備えて隠れ家を用意し、家の中にトンネルを掘った。父は娘に死を逃れる唯一の方法は勉強をしてルワンダを去ることだと教え、キガリの名門校ノートル=ダム・ド・シトー(lycée Notre-Dame de Cîteaux)を受験させた。試験当日には、娘が逃げ出さないように、棒を持って試験室の前に立っていた。
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