名投手からの暗転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 02:55 UTC 版)
「元千葉ロッテマリーンズ投手強盗殺人事件」の記事における「名投手からの暗転」の解説
野球選手として活躍した小川博は前橋工業高校時代、同校のエース投手として3回甲子園に出場し、「群玉(群馬の玉三郎)」と呼ばれ、甲子園のアイドルとなった。高校卒業後は青山学院大学へ進学し、4年生時(1984年)の春には同大学野球部を(東都大学野球連盟の)1部復帰へ導いたほか、同年秋には当時最高の順位となる2位への躍進に貢献した。そして、1984年に開かれたドラフト会議でロッテオリオンズから2位指名を受け入団。 1985年からはロッテオリオンズの選手としてプレーし、1988年にはオールスターに出場して5者連続奪三振を記録し、同年10月19日に川崎球場で開催された「10.19」(近鉄バファローズとのダブルヘッダー)第1試合ではロッテの先発投手を務めた。同年は31試合に登板し、自身初の2桁勝利となる10勝を挙げた。また両リーグ最多の204奪三振を記録し、同年オフの契約更改では年俸が2,200万円に倍増した。しかし1989年に肩を痛め、以降は成績が低迷し、球団名が「千葉ロッテマリーンズ」に変更された1992年限りで現役を引退した。 小川は現役引退後の1993年 - 1999年までロッテ球団のトレーニングコーチを、2000年 - 2002年まで編成部調査担当の球団職員を務めたが、かつて大金を稼いでいたころの浪費癖に加え、遊興費・携帯電話のアダルトサイト使用料などで、ヤミ金などから借金を重ねた。 2002年11月に球団職員を解雇され、球界を離れる。その後、台湾プロ野球 (CPBL) でコーチ就任の話があったが、「(年俸)700万円では苦しい」と断ったとされる。2003年1月に埼玉県の産業廃棄物処理会社に就職し、同年4月には1,750万円の借金を抱え自己破産をした。同年10月、再婚した妻と2人の子どもとさいたま市のマンションに引っ越したが、その後もヤミ金数社から借金していた。 2004年夏ごろ、小川がロッテ二軍本拠地のロッテ浦和球場(さいたま市南区)選手控え室に入ってすぐに姿を消したことが目撃されていた。ロッテ球団関係者は『デイリースポーツ』(神戸新聞社)の取材に対し「同時期にロレックスの腕時計など選手の所持品・クレジットカードがなくなる事件が頻繁にあり、窃盗の被害届が増えたことから『小川が犯人ではないか?』と噂になっていた」と証言した。 前述のヤミ金からの借金に加え、事件当時は二度にわたり離婚していたため、慰謝料・子供の養育費・住宅ローンなども抱え込み、さらに経済的に追い詰められることとなった。
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