吉田虎一の奇襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:58 UTC 版)
一説として吉田虎一は宇和島へ戻ったとされる直系子孫の話によると、火薬取扱い爆破させるのは宇和島藩、薩摩藩とも長けており、明治政府軍(大日本帝国陸軍、大日本帝国海軍、東京警視本署)総師、山県有朋いわゆる官軍が木留山にさしかかった時、歴史では吉田虎一が爆破、大炎上、壮烈な戦死とあります。軍事力強大、装備に勝る官軍に対し「寡をもって衆を破る」を実践する。爆破により敵の攻撃力を剔ぐ、奇襲の策略は官軍の狼狽、総退却から一時的に成功したと言えます。宇和島藩屈指の剣の使い手であり、謀略は弁えている御庭番であるが、一人で精鋭官軍の隊列を切り崩し接近し、爆破させたのか、何らかの方法で仕掛け爆破させたのか、影武者か、とにかく吉田虎一参上の形をとり、盟友西郷隆盛の軍に加勢したことになる。強大な軍事力の官軍に対し一矢を報い、他藩であることから大混乱の中、虚実進退はよく心得ており、田原坂を離れ宇和島へ帰ったとも伝えられている。一人で動乱の真只中、鹿児島へ赴き、一人で絶対優勢な官軍乃木希典の指揮する弾薬補給軍に照準を合わせ爆破、戦術的に勝利し、大混乱の中、人知れず帰国していたのであれば、兵法を充分に心得た、優れた御庭番であると言える。この一撃は明治政府軍にとっては、一人に隊列を突破され爆破され、肝をつぶすと言う大失態、一時的にも総退却しており、吉田虎一にとっては痛快、してやつたりである。視点を変えれば、宇和島にとっても我身を顧み、現状を鑑みると、あまり触れたくない出来事であると言えます。後の陸軍大将乃木希典、薩摩軍に軍旗を奪われるなど、戦力2倍以上、最新兵器装備にもかかわらず、損害13,000名以上双方戦死者ほぼ同数、激戦であったことが知れる。
※この「吉田虎一の奇襲」の解説は、「吉田虎一」の解説の一部です。
「吉田虎一の奇襲」を含む「吉田虎一」の記事については、「吉田虎一」の概要を参照ください。
- 吉田虎一の奇襲のページへのリンク