吉田虎一概略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:58 UTC 版)
宇和島藩士吉田虎一の名が、初めて世に知られたのが、寛延2年(1749年)仙台伊達家との家格にかんする確執の際、吉田虎一の咄嗟の行動は宇和島藩の面子を守った事になる。それから120年以上の歳月が過ぎ、幕末から明治にかけての激動期、諜報機関として広汎な役儀に挺身し東奔西走する。明治10年鹿児島より政府軍との開戦近しの知らせ受ける。鹿児島と連絡を取る必要から、この重大な役目として、宇和島藩を代表して単身特使として派遣されたのが吉田虎一(士族)であった。伊達家代々の家臣、宇和島藩御庭番頭であり役目柄から特に「陰」であり、藩主の信任厚く、明治政府側としても知るよしもない。宇和島藩士、御庭番から史上に輝く多くの著名人を輩出している。吉田虎一は古くから藩政時代を通じ、代々名前を受け継ぎ、御庭番を勤めた人物。墓碑から伊達秀宗が宇和島へ入国に同行した一人ではないかと考えられる。また武芸はもとより詩文は杷憂庵天章に学びその門には乃木希典陸軍大将、広瀬旭荘、武田斐三郎等多数の人材を輩出している。
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