ごうどううんよう‐しんたく〔ガフドウウンヨウ‐〕【合同運用信託】
合同運用信託
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 17:44 UTC 版)
「バンク・オブ・ニューヨーク」の記事における「合同運用信託」の解説
ニューヨーク銀行はモルガンやロックフェラーのように原始的なシャドー・バンキング・システムを組織した。それを1907年恐慌が直撃し、同行は10月24日に連鎖倒産した銀行群のひとつとなった。連邦準備制度が成立したときは、銀行引受手形という貿易金融を会員銀行として優遇され、業容を拡大した。1922年、ニューヨーク生命保険信託と合併した(Bank of New York Trust Company)。モルガン系であったニューヨーク生命のシャドー・バンキング・システムを利用できるようになったのである。ニューヨーク銀行は世界恐慌でも預金総額を増やした。1930年12月、ニューヨーク連邦準備銀行が会員銀行に総額2600万ドル超をベイルアウトしていた。ニューヨーク銀行はニューディール政策を支え、他の金融機関と連携し第二次世界大戦の軍事費を供給した。そこで1940年投資会社法(Investment Company Act of 1940)が全く適用されない合同運用信託制度が設計された。 このアドバンテージがニューヨーク銀行に財界全体へ及ぶような求心力をもたらした。世界恐慌時代の社長(John C. Traphagen)が戦後の指導者となった。彼は1945年の連邦準備顧問会でナンバー2の座にあった。1948年から1957年までニューヨーク銀行の会長職にあり、1931年から1971年まで重役だったが、それだけではなく、大西洋相互保険(Atlantic Mutual Insurance Company)、イギリスのプルーデンシャル、スウェーデンのスカンディア(Skandia)、バブコック・アンド・ウィルコックス、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道、そして国際ニッケル(現ヴァーレ)を含む多くの企業で重役をしていた。ニューヨーク銀行は、フィフス・アベニュー銀行(1948年)とエンパイア信託(1966年)を買収した。1968年、ニューヨーク銀行は株式会社化した(The Bank of New York, Inc.)。1969年5月29日、持株会社がニューヨーク銀行やカウンティ信託(The County Trust Company)をふくむ6社の株式を保有した。カウンティ信託の重役らは戦前フランクリン・ルーズベルト大統領の再選に貢献したのだが、名前はアルフレッド・リーマン(Alfred Lehman)、アル・スミス、ヴィンセント・アスター(Vincent Astor)、そしてジョン・ラスコブ(John J. Raskob)であった。
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