受洗以降
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明治19年(1886年)、夫・量平は、東京・深川教会で長老として伝道に従事し、幹枝もこれに協力し、下町の貧しい人々の救済するために、夫とともに貧民救助会を組織して活動した。 ルーテル教会の日本への伝道開始にあたって、明治26年(1893年)4月、佐賀十字教会創設のため日本福音ルーテル教会の最初の宣教師であるジェームス・シェーラーやラファス・ピーリーらに同行し、日本語通訳として夫・量平とともに佐賀へ移る。幹枝自身は伝道師としても活動した。 明治26年(1893年)6月、夫・量平とともに幼稚園兼日曜学校を開設し、校長を量平として、幹枝が教師となって聖書・讃美歌を園児たちに教えた。 明治32年(1899年)、夫・量平と娘婿の山内直丸が按手礼を受けて、日本福音ルーテル教会の最初の牧師になる。 明治38年(1905年)、夫・量平の博多転任に伴い、博多へ移住し南博幼稚園の開設に尽力した。 明治43年(1910年)7月2日、幹枝の母・川瀬始代の死亡により、夫・量平の子弟で博多の路帖神学校の開学一期生として神学を学んでいた入江徳太郎を、始代(もとよ)の選定家督相続人となさしめてその名跡養子とし、実家の川瀬姓を継がしめた。 大正2年(1913年)、南博幼稚園の伝道師兼保母として献身する。 大正6年(1917年)、夫・量平の病気により、伝道活動を引退して和歌山県田辺へ帰郷。 大正7年(1918年)12月21日昇天。享年57歳。
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受洗以降
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明治22年(1889年)、福音の伝道に献身することを決意する。明治24年(1891年)明治学院神学部に入学し、学を修めて明治28年(1895年)に同校を卒業する。その年、山内量平の招聘によって、日本ルーテル教会の最初の教会となる佐賀十字教会(現日本福音ルーテル佐賀教会)に赴任し、教会で献身的に活動をする内、山内量平に信頼されるところとなり、翌明治29年(1896年)9月、ジェームス・シェーラーの司式により、山内量平の実姪で後に養女となっていた山内あやと結婚する。この時、山内量平の婿養子となり氏を山内に改め、以後は名実ともに山内量平の後継者として活動することとなった。
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