受洗以降とは? わかりやすく解説

受洗以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/20 15:45 UTC 版)

山内幹枝」の記事における「受洗以降」の解説

明治19年1886年)、夫・量平は、東京・深川教会長老として伝道従事し幹枝もこれに協力し下町貧し人々救済するために、夫とともに貧民救助会を組織して活動したルーテル教会日本への伝道開始にあたって明治26年1893年4月佐賀十字教創設のため日本福音ルーテル教会最初宣教師であるジェームス・シェーラーラファス・ピーリーらに同行し日本語通訳として夫・量平とともに佐賀へ移る。幹枝自身伝道師として活動した明治26年1893年6月、夫・量平とともに幼稚園兼日学校開設し校長を量平として、幹枝教師となって聖書讃美歌園児たち教えた明治32年1899年)、夫・量平と娘婿山内直丸按手礼受けて日本福音ルーテル教会最初牧師になる。 明治38年1905年)、夫・量平の博多転任に伴い博多移住し南博幼稚園開設尽力した明治43年1910年7月2日幹枝母・川瀬始代の死亡により、夫・量平の子弟で博多の路帖神学校開学一期生として神学学んでいた入江徳太郎を、始代(もとよ)の選定家督相続人となさしめてその名跡養子とし、実家川瀬姓を継がしめた。 大正2年1913年)、南博幼稚園伝道師保母として献身する大正6年1917年)、夫・量平の病気により、伝道活動引退して和歌山県田辺帰郷大正7年1918年12月21日昇天享年57歳

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受洗以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 15:35 UTC 版)

山内直丸」の記事における「受洗以降」の解説

明治22年1889年)、福音伝道献身することを決意する明治24年1891年明治学院神学部入学し、学を修めて明治28年1895年)に同校卒業する。その年、山内量平招聘によって、日本ルーテル教会最初の教会となる佐賀十字教会(現日本福音ルーテル佐賀教会)に赴任し教会献身的に活動をする内、山内量平信頼されるところとなり、翌明治29年1896年9月ジェームス・シェーラー司式により、山内量平の実姪で後に養女となっていた山内あやと結婚する。この時、山内量平婿養子となり氏を山内改め以後名実ともに山内量平後継者として活動することとなった

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