反応・受容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 16:59 UTC 版)
大阪では事件についての流行歌「今度泉州沖で、土佐の攘夷が、大あたり、よか、敵は仏蘭西、よっ程 ゑじゃないか、よふか、よか、よか、よか、」「妙国寺、妙国寺、土佐のおさむらい腹を切る。唐人見物、ビックリシャックリと、おおさビックリシャックリと。」などが歌われた。はじめ11人の墓は妙国寺に置かれる予定であったが、勅願寺に切腹した者を葬るのは不都合という伊達宗城の意見が通り、同じ堺市内の宝珠院に置かれた。その11人の墓標には多くの市民が詰めかけ「ご残念様」と参詣し、生き残った9人には「ご命運様」として死体を入れるはずであった大甕に入って幸運にあやかる者が絶えなかった。 高知県内では、切腹させられて死んだ旧藩士らを顕彰すべきとの世論が早い時期からあった。明治16年の紀念碑建設運動に対し、政府(外務省、内務省)は親族による追悼は構わないが事績を顕彰する目的での紀念碑は外交上の理由から不可とする回答をした。 明治26年(1893年)に内務省は顕彰を目的とし、内訓として府県に維新功労者の名簿の取り纏めを命じ、高知県は「勤王者調」をまとめたが、この時点で含まれていたのは箕浦猪之吉一名のみだった。 高知県側は11名の死者を「烈士の英霊」であるとし、靖国神社への合祀を求める嘆願をした。大正時代には第一次世界大戦で日本とフランスが協調した。日本側は1917年(大正6年)に堺で事件における両国の死者を弔う「弔魂会」、その後堺事件五十年祭典を開催するなどした。この時点で、フランス側の反感は薄れたものと考えられた。1917年に高知県護国神社は11名を合祀した。1920年に、11名の日本側死者が「殉難者」として靖国神社に合祀された。これに至る過程には、いずれも高知出身の実業家片岡直輝・片岡直温、宮中土佐派と言われた土方久元、岩崎英重、陸軍の阪井重季などが関与したものと考えられている。
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