反応と採用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 04:40 UTC 版)
電話自体がまだ目新しいもので、電波も実用化には数十年かかるものだった。フォトフォンという未来的な通信形態に対する社会的な抵抗感は、1880年8月の『ニューヨーク・タイムズ』紙の論評にも表れている。 普通の人は、……太陽光線がどのように使われるのか理解するのは少し難しいだろう。ベル教授はボストンとケンブリッジを……電信柱に吊るした太陽光線で結ぶつもりなのか、もしそうなら、太陽光線の直径はどのくらいになるのか……(そして)天候に対して遮蔽する必要があるのか。……No.12の太陽光線のコイルを肩に担いで通りを歩き、電柱から電柱へと吊り下げる男を(一般の)人々が見るまでは、ベル教授のフォトフォンには、信じようとするには無理がある何かがあると一般的に感じられるだろう。 しかし、ベル自身はこの成果を非常に誇りに思っており、生まれたばかりの次女に「フォトフォン」と名付けようとして妻のメイベルに止められた。ベルは、父に宛てた手紙で、やや熱狂的に次のように書いている。 私は日光による明瞭なスピーチを聞いたことがある! 私は太陽の光線が笑い、咳をし、歌うのを聞いたことがある! ……私は影を聞くことができたし、太陽の円盤を横切って雲が通過するのを耳で聞いたことさえある。あなたはフォトフォンの祖父であり、私はこの成功の喜びを分かち合いたいのである。 —アレクサンダー・グラハム・ベル、父アレクサンダー・メルヴィル・ベルに宛てた手紙。1880年2月26日 ベルは、フォトフォンが自分の発明の中で最も重要なものであると考えていた。ベルは生涯で、単独で18件、共同で12件の特許を取得しているが、そのうち4件がフォトフォンに関するものだった。ベルはフォトフォンを「自分の最高の業績」と称し、死の直前には記者に「(フォトフォンは私が)これまでに作った最大の発明であり、電話よりも素晴らしい」と語っている。 ベルは、1880年5月にフォトフォンの知的財産権をベル電話会社に譲渡した。ベルは、自分の発明したフォトフォンが、船で使われたり、大通りに張り巡らされる電話線を置き換えるものになることを期待していたが、フォトフォンは光の伝達を容易に妨げる雲・霧・雨・雪などの干渉から通信を保護することができなかった。天候や光の不足などの要因で、ベルの発明は実用化されなかった。ベルシステムの研究所では、高価な従来の電話回線を補完したり、代替したりすることを目的に、フォトフォンの改良を続けていた。最初に実験以外で使われたのは、第一次大戦・第二次大戦中の軍用通信システムで、光を使った通信は敵に傍受されないという大きな利点があった。 ベルは、人工的な光源、恒星、黒点のスペクトル分析へのフォトフォンの利用も考えていた。レーザーや光ファイバーによる通信までは予想していなかったが、次のように、将来的な応用の可能性についても推測していた。 この発明の未来を想像してみてください!.... 伝導線を使わずに、目に見える距離まで光で話すことができる.... 一般的な科学の分野では、フォトフォンによって、今では想像もつかないような発見がなされるだろう。
※この「反応と採用」の解説は、「フォトフォン」の解説の一部です。
「反応と採用」を含む「フォトフォン」の記事については、「フォトフォン」の概要を参照ください。
- 反応と採用のページへのリンク