参政と暗殺とは? わかりやすく解説

参政と暗殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 08:07 UTC 版)

村上真輔」の記事における「参政と暗殺」の解説

真輔が仕えていた当時赤穂藩は、天保の大飢饉から続く天災により財政窮乏しており、森主税家出身の家老可真、次いで采女家出身の三勝緊縮政策行ったことごとく失敗森家当主10代藩主・忠貫が夭折したため、急遽弟の忠徳が継いだものの、当初から家老たちに実権奪われていたために政治関心持てずにいた。 真輔は可真の子・森可彜用人として藩政携わったが、可彜もまた年若く家老になったために万事華美で、可真そして真輔が推進してきた質実主義とは相容れなかった。可彜は真輔の度重なる諫言にも耳も貸さずたまらず真輔は老齢理由隠居申し出たが、聞き届けられなかった。一方主税家と対立していた続之丞家当主可則は忠徳の長子・忠弘の元、下級武士出身で忠弘の側近であった鞍懸寅二郎小林寅哉)を重用するなど藩政改革乗り出していた。 だが、忠弘は安政4年1858年)、18歳若さ夭折。その跡継ぎを巡って可則は忠弘の遺言称して三男・扇松丸(後の森忠儀)を推挙憤激した可彜と真輔は直ち江戸上り、忠徳に年長者優先秩序乱してならない進言次男・遊亀丸森忠典)が跡目継いだ跡目争い破れ焦った可則は、急遽二郎勘定奉行任じるなど、強引な人事改革強行しようとした。可彜らは再度江戸上り、可則一派排除迫った。寅二郎が忠徳の側妾を解任しようと献策していたこともあり、忠徳は改革中止決断。可則は蟄居し、寅二郎は藩から追放された。 藩政は再び主税一派掌握したが、改革止まった赤穂藩財政はさらに逼迫藩政から排除され下級藩士らの憤懣頂点達し、やがて、尊皇攘夷派として活動していた西川升吉の元に不満分子集結した西川は真輔の次男河原駱之輔(翠城)の門弟自称する説客であり、真輔に接近して信頼得た一方、可則と通じて藩の不満分子組織していた。 文久2年12月9日野上鹿之助(寅二郎姉婿)宅に集結した西川15人は可彜、真輔両名暗殺決意。真輔暗殺西川ら5名が請け負ったかくしてその日夜半西川らが、「薩・長・土三藩との会合上京するゆえ、用件があれば聞きたい」と屋敷訪問面会した真輔を襲撃してこれを殺害した享年65同時刻、可彜も赤穂城二の丸門前で8人の刺客討ち取られた(文久事件)。決起参加しなかった野上らを除いた13人は、両名藩政壟断したと断ずる斬奸状を遺して脱藩し兼ねてから気脈を通じていた平井収二郎の手引で京の土佐藩邸に匿われた。

※この「参政と暗殺」の解説は、「村上真輔」の解説の一部です。
「参政と暗殺」を含む「村上真輔」の記事については、「村上真輔」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「参政と暗殺」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「参政と暗殺」の関連用語

参政と暗殺のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



参政と暗殺のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの村上真輔 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS